ことし初めての松茸ごはんを父の仏前に供える。
それでは父からの聞き書き、昨日のつづき。
選鉱所が建設され、人員増加のため笹原、末広、旭が丘、笹森の各地区が開拓されて社宅が建設された。それまで社宅が建っていたのは事務所近くの赤倉と住吉にあわせて10数棟。それに独身寮と健保会館、診療所。私たち家族が居住していた清瀬地区は、わずか6棟12世帯と鉱山長宅だけであった。それが清瀬だけでも、一挙に全26棟47世帯になった。ほかに全従業員520人を収容する住宅が山を切り崩すなどして建設されたのである。全人口は2000人ほどだったろうか。小学校が建設され、さらに規模を拡大した診療所、3カ所の共同浴場、床屋、配給所(スーパーマーケット)、接待館等がつぎつぎ建設されていった。
これらの基礎工事と建設は、当初から八総鉱山に入っていた北海建設株式会社に加えて鹿島建設株式会社が一手に請け負っていた。それぞれの事務所は赤倉にあった。八総鉱山の建設工事はその後もつぎつぎとあったので、両社は事務所のほかに住宅を設けて、設計を担当する社員のほかに大勢の労働者を常駐させていた。飯場と称していたが、いわゆる労働者飯場ではない。普通の住宅である。
工事のなかには選鉱所の沈澱池の建設もあり、巨大な沈澱池は排水でいっぱいになるとその横にあらたに増設していった。
坑道は900メートル〈ヒ〉でいよいよ上方へ掘削されてゆく。赤倉露天抗である。
赤倉通洞は、赤倉口から館岩口まで1200メートル。完全に山を横断していた。鉱石運搬用トロッコの線路が敷設された。さきに述べた900メートル〈ヒ〉の手前に、〈見張り〉と称していた4~5坪くらいの広さの事務所が、岩盤をくり抜いて設けられている。もちろん板壁に天井を張り、床板を敷いてあるので、中にはいればごく普通の事務所とかわりない。朝、出勤した現場作業員は、この〈見張り〉に立ち寄ってから、各々の現場に向った。
〈ヒ〉から鉱床に入ってゆく露天抗の最初の採掘坑----いわゆる先進坑である竪坑は、地上から上方へ250メートル、下方ヘ約30メートル、途中で鉱床の逃げ(傾き)にそって屈曲しながらもほぼ垂直に掘削されている。坑道は直径約1間(180cm)、内部が1寸板(厚さ約2.5cm)の壁で巾120cmと巾60cm程度との二つの空間に分けられている。広いほうは採掘した鉱石を投げ落す坑で、狭いほうには作業員が昇り降りする木梯子が岩盤に打ちつけた枠に取り付けられていた。木梯子は長さ1間半程度のごく普通のもので、上方の岩盤に丸太を打ち込んでつくった足場へ、そこからまた次の上方の足場へと、交互に、250メートル地点まで上っていた。
そしてこの竪坑には別に鉱石運搬用のエレベーターの坑道が固い凝灰岩の岩盤を貫いて上下それぞれ30メートルのところまで併設され、さらにもう一本の別の坑道がその30メートル地点から上方60メートルまで開鑿されているが、これは採掘した鉱石を上から落して溜める漏斗であった。その下部には斜に開閉扉が取り付けられている。
先進竪坑は250メートル上方まで採掘を終了すると使命を達成した空坑として打ち捨てられたのであるが、エレベーターの到着点の地上30メートルより上方15メートル地点に探鉱用の試掘坑が横にのび、さらにその上方15メートル地点に本坑が掘られた。その坑道は鉱床の塊(マス)の逃げ(傾き)にしたがってマスの内部で四方八方にのび、それぞれの坑道はまた竪坑を穿ち、試掘坑と本坑の15メートルごとのパターンによって、マスの内部の各所で採鉱がおこなわれているのだった。八総鉱山の鉱床のマスの特徴はさきに述べたように、上方にいくにしたがい北西方向へ傾きながら固まっている。先進竪坑からこの鉱床のマスにもぐりこんだ採掘坑はこのマスをすべて掘り出してしまうべく、いわば蟻の巣穴のように縦横にのびて行ったのである。と言っても、黒鉱交代鉱床は比較的やわらかいのが特徴で、崩壊や落盤をふせぐため採掘を終了した坑道は試掘坑からでる岩石(ズリと言う。石ヘンに并と書く)で埋めもどしながら次に移ってゆくのである。
エレベーターは人間が乗るためのものではないので、現場作業員は垂直な暗黒の坑道を、ヘルメットに取り付けたカンテラの明かりだけで、削岩機を担ぎ、梯子から梯子へと移りながら昇り降りした。
(以下つづく)
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