我家の向いのTさんの家には本道に面した巾10mほどの畑のはずれから二股に分れた私道を行く。その二股の根元におとなが二抱えもするような大木があった。何の木だか忘れてしまったが、丈は低く、主幹は2m50もなかったかもしれない。まるで不格好な掌みたいに、てっぺんに細い枝を何本も突き出して、こんもりとした葉叢を成していた。私はこの木がなぜか気になっていた。好きだったのかもしれない。幹のふもとに、たぶん馬頭観音ではなかったかと思うのだが、石像が祀られていた。
引っ越しした年の二百十日に、一晩中、大嵐が吹き荒れた。我家の周囲は他家にくらべて何もないガランとしたところだったので、道路や隣の広場をおおきな音を轟かせながら風が通り抜けてゆくのが聞えた。例の大木からも葉叢を打鳴らす音がしていた。----翌朝、私はその木が葉を散らせてほとんど丸坊主になっているのを見た。
当時、川上村地方の冬の積雪はほとんどなかった。だから子供たちがスキーをする光景を見かけたことがない。とはいえ寒さは文字どおり凍てつくばかりの日がつづき、池や沼は厚い氷におおわれた。子供たちはスケートや氷上用ソリで遊ぶのである。小学校の運動場横の田圃が、水を張られてスケート・リンクになった。市販されているスケートに乗っている人、自分でつくった竹スケートに乗っている人。氷上用ソリというのは、接氷面に竹や、大抵は直径3ミリほどの鉄線を取り付けた、おしりがのっかる程度のおおきさのもので、両手に錐状のストックを持って漕ぐのである。そのストックは長さといい形状といい、大工道具の錐にそっくりだった。
私もソリを持っていた。父がだれかに頼んで作ってもらったのだ。ほんとうの大工さんが作ったらしく、きれいに鉋掛けされ面取りされたソリだった。
我家の裏手、つまり隣家の食堂と我家の物置とバス車庫の背後一帯は、高さ1間ほどの急斜面の窪地で、ちいさな沼だった。そこにも氷が張り、私はひとりでそのアイス・リンクでソリ遊びをした。普段はなんだか底無し沼のような感じがして、遊ぶのを禁じられていた場所だった。
山二旅館の裏に水車があった。そこからお爺さんと娘さんが住む家の裏をとおって製材所まで、大きな樋が架かっていた。沼のあたりで高架になっていたが、当時はもう樋は使われていず、高架になるところで朽ち果てていた。昔、製材所で使用する水を運んでいたのだろう。朽ちた樋はいかにも危険だったが、私はよじ登ってその中で遊んだ。ときどきちょろちょろと流れる水が、高いところから沼のはずれに落ちていた。それが冬は太い氷柱(つらら)になってぶらさがった。
昭和27年が明けて、健蔵君の家の向いの土蔵脇の裏山に設けられた小広場で、村の青年が中心になって正月飾りを焚く「ドンド焼き」がおこなわれた。私にとってそれは〈村落共同体〉の伝統行事を目近で見るはじめての経験だった。遠巻きながら村の子供たちにうち交じり、夜の闇を赤くそめる炎に顔をあぶられていた。
2月に入って、私と弟は母に連れられ新潟の伯父伯母の家を訪れた。母は妊娠していて、出産のための滞在だった。そしてこのとき、私は母の妊娠の事実をまったく知らなかったのだと思う。伯母の家に着くと母はまもなく入院し、私たち兄弟は伯母の家に残された。伯母には5人の子供がいたので、たぶん賑やかだっただろうが、私には家裏の沼や円形のテーブルを据えた応接室の様子がぼんやり思い出せるだけだ。
ある日、弟の手を引いて病院をたずねて行った。二階のまるで旅館の和室のような部屋に、蒲団をのべて母は寝ていた。私たちが障子戸をあけると、母は寝たまま顔をこちらに向け、「来たの----」と弱々しく言った。私たちは部屋に入って、寝床の横に坐った。すると母が盆の上のカルピスをさして、飲むように言った。
枕許の飾り物ひとつない床の間に、新聞紙の小さな包みが置いてあった。
「あれ、何?」 私は聞いた。
「赤ちゃんよ。死んでしまったの。見てごらん」と母は言った。
私は新聞紙を解いた。重なった何枚かの新聞紙をあけてゆくと、やがて血が滲んだ新聞紙の塊がでてきた。そして、べったり張り付いた紙をそれ以上取り除くことはできそうになかった。私はまたそれを包み直し、床の間に置いた。
この場の私の記憶はこれだけで、その余のことは何も憶えていない。後日母の言うことには、あの包みのなかの小さな遺体は伯父が火葬場にもって行ったそうだ。そして、申しわけ程度の骨を持って帰ったのだが、じつは胎児の遺骨は完全に燃え尽きてしまい何も残らなかったので、別な遺骨をしるしばかりにもらってきたという。母は「そんな見ず知らずの人の遺骨を持っていることはできない」と突き返すと、伯父はまた火葬場へ返しに行ったのだった。
この新潟滞在中、母の退院後のことだが、4月になると私は小学校に入学するので、その準備のためにデパートへ買物に行った。ランドセルや金釦が付いたダブルのブレザースーツや学帽を買ってもらい、それらを身に付けて写真室で2枚の写真を撮影してもらった。1枚は私ひとりで。もう1枚は母と弟と一緒に。
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Last updated
Oct 23, 2005 05:55:54 AM
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