私の家の左隣30mほどはなれて町のグラウンドがあった。野球があるたびに板塀を越してボールが飛んできた。軟球だったが、私はそういうボールを草むらから発見して、20個以上持っていた。私は野球が好きで、自分のユニフォームを持っていた。母の手製だった。ズボンの脇や半袖の上着の袖口や襟元に赤い細いラインが刺繍されていた。母がどこからみつけてきたのか、胸に竜のワッペンまでついていた。それを着て、子供用の赤バットをもって、周囲には同年輩の男の子の遊び相手はいなかったけれど、私は大得意だった。
物のない時代だったので、私の洋服は洋裁学院に仕立ててもらっていた。そんな縁で、羽幌港祭りのとき羽幌映劇で開催された『ニューモード・ファッション・ショー』に出演を依頼されたこともある。女の子と手をつないで、「おーてて、つーないで」の曲にあわせてステージを歩き回った。楽屋でおとなの女性モデルたちがほとんど素裸で全身化粧しているのでびっくりしてしまった。私は彼女たちにモテモテだったのだ。ショーが終わってから写真館で写真を撮った。いまそれを見ると、ダブルのスーツを着ている。
私はまだ学齢に達していなかったが、小学校のグラウンドの前はT字路になっていて、その近くに洋服店があった。ある日、母とその店に行くと、そこの息子が先日ギャザ鋏で指を切ったのだと聞かされた。店先の框(かまち)にそのギャザ鋏があった。刃が獣の牙のように禍々しく光っていた。私は、指がポロリところがっているような幻想にとらわれた。
その洋服店の前を通って学校と反対側のつきあたりに製麺所があった。私の家から3町(約340m)ほど離れていたらしい。私はしばしば使いに出された。粉を持参すると饂飩をつくってくれた。それも戦後まもない時代のせいであったろう。製麺所とはいえ、粉の蓄えが十分あったわけではないのだ。店から奥の仕事場がわずかに見えた。仕切り戸のすぐ後ろに、機械から出てきた饂飩がカーテンの縁飾りのようにたれて、綺麗に干してあった。私はそれが面白かった。饂飩屋へのお使いが好きだったのだ。
家の裏に独立して物置小屋があった。その横にかなり大きな(と、思っていたが、実際は1間半×1間くらいだった)鶏舎もあり、ひよこが数十羽いた。物置小屋は中にはいって引き戸を閉めるとほとんど真っ暗になった。明かり取りの窓がなく、わずかに板壁の隙間から外の光が洩れるだけであった。そこには壊れた防毒マスクやら日の丸が染め抜かれた兵帽などが、ごちゃごちゃと木箱に投込まれていた。私には宝物がつまった箱のようで、なかなかお気に入りだった。とりわけゴム製の防毒マスクに有頂天になった。目の部分がまるく刳り貫かれ、口は象の鼻のように長い筒が伸びてその先端に水筒のようなものがくっついていた。奇怪で、滑稽でもあるその形が私の気にいったのである。
ある日、近所の女の子と一緒にいつものようにガラクタを引っぱり出して遊んでいた。そのうち女の子がパンツを脱いで床の上に坐り、脚を投げ出した。私はびっくりしたが、その内股やふっくりした陰部に触れてみた。私は女の子が自分と違っていることを不思議に思った。なんだか恥ずかしかった。誰にも言ってはいけないことのように思った。ただ一度の秘密の遊びである。
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