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北海道爾志(にし)郡熊石村に逆川(さかさがわ)という川があった。熊石村はいまでは町となっているが、逆川が現在もあるのかどうか。この川がなぜこのように呼ばれるようになったか、その謂われを知っている人はいるだろうか。事は延宝6年(1678)12月22日であるから今から327年前の話である。
と書いて、じつは私はいささか驚いている。今日はまさに12月22日、まもなく23日になろうという時間。この話を書こうと思うまで、偶然とはいえ同月同日の符合にまったく気がつかなかった。327年前の事件をいまさらながら書いてみようと思ったそもそものきっかけは、弟が「昔の雑誌に関する情報で、その中に兄さんの奇妙なインタヴューが載っているよ」と報せてくれたからだった。そのインタヴューで私は、「私の祖先は怨霊寺の住職」と言っているらしいのだ。 「はて、何という雑誌だろう?」と考えて、「そういえば20年以上前に----」と思いだしたのは怪奇作家の故佐藤有文氏のことだった。 佐藤氏が電話をかけてきて、「山田さんの御先祖は、北海道松前藩の有名な怪談『門昌庵騒動』にゆかりがあると言ってらしたけど、その話を聞かせてくれないかなァ」と言う。私は手短かに江戸時代の事件の顛末を話した。後日、佐藤氏はポートレートがほしいとカメラマンを私の家に派遣してよこした。氏は何でもコレクションしなければ気がすまない人なので、怪談の話し手としての私の写真もほしくなったのだろうと思ったのだった。 雑誌に載ったインタヴュー記事というのは、おそらく書き手は佐藤有文氏にちがいない。---- というわけで、その記事の内容は知らないが、ことのついでに私自身が『門昌庵騒動』について書いてみようと思ったのだ。松前藩の御家騒動だから、詳しく話すと長くなる。ざっとかいつまんで話すことにしよう。 松前藩は短命の君主がつづき、十世松前矩廣(1659-1720)が、22歳で夭折した父高廣のあとを襲い五代目藩主の座についたのはわずか6歳のときであった。君主幼少のため藩政の実権は家老職蠣崎廣林が掌握していた。寛文12年(1672)に蠣崎が死去すると、13歳になっていた矩廣は親族で江戸家老の松前泰廣の後援をえてようやく実権を奪還する。しかしいまだに少年君主を意のままに操ろうと画策する者があとをたたなかった。 奸臣(かんしん)たちは下級藩士の美貌の娘を殿中に入れて侍女とした。矩廣はたちまち彼女に目をとめ、幾江と命名して寵愛した。若盛りの藩主は日夜の酒色におぼれた。 これを耳にした江戸家老松前泰廣は、下級藩士より正室を迎えることは後日のわざわいの元と懸念した。即座に国家老と相談して、矩廣19歳の秋、京都の公卿、唐橋侍従菅原在庸(ありつね)の姫君、雪を奥方に迎えた。 しかし雪の方は翌年7月に急逝する。毒殺されたといわれている。 新婚の閨房の夢さめやらず、多趣味にして放恣な矩廣は、悶々とした気持をかかえながら一日郊外の海辺を微行する。そしてその帰りに、藩士丸山久治郎兵衛清康の妹喬子(たかこ)を目にする。喬子は丸山小町と評判の美しい娘だった。矩廣はただちに彼女を召し出し侍女とした。 喬子には亡父が決めた許嫁がいた。といってもその男は江戸勤番中に他藩の士と口論になり、あげくのはてが2人を殺害して逐電しまっていた。喬子との婚姻の約束は無効になっていたのだが、喬子は忘れることができないでいたのだ。藩主の厳命とはいえ、御殿奉公は兄清康の栄達をおもえばこその承諾であった。 矩廣は彼女を松江と命名して寵愛した。しかしそれが幾江の嫉妬をかうこととなったのは当然である。また奸臣たちにとっても幾江が遠ざけられては謀略の遂行に支障をきたす。彼等の松江に対する陰湿残忍な虐待がはじまったのだ。 松江(喬子)の兄丸山清康は、殿中で妹が受ける仕打ちを仄聞するにつけても、妹があわれで堪え難かった。思いあまって、殿が深く信任する法憧寺の柏厳禅師をたずねて事の次第をうちあけた。法憧寺は松前藩主歴代の菩提寺である。 延宝5年10月20日、蛭子講の日、矩廣は侍女たちを引き連れて専念寺浄玄をたずね、歌会を催して興をつくした。その後、菩提寺の柏厳禅師を訪れた。四方山話に花が咲き、すでに日没におよんでいたが、矩廣はすこぶる満悦であった。柏厳禅師はこの機会にと、尾張の清秀寺の故事を引いて諄々と注言したのである。また、さらに一歩進めて、悪事をたくらむ近臣達の讒言を信じて松江を損なうようなことがないようにと述べた。 矩廣は禅師の諌言を深く感謝した。しかし一方で、かつての許嫁を忘れることができず一途に純潔を守る松江に、矩廣の情炎はいやましに煽られるのである。 この若い油照りのような炎を老獪な奸臣達が気がつかぬはずはない。柏厳禅師のもとを辞して帰館した矩廣の前に、「御内密に申し上げたき一大事に御座りますれば、畏れながら御人払いを願い奉ります」と進みでた者たちがいる。 「まことに申し上げにくき事にて御座りまするが、じつは松江のことについてで御座ります。松江は微録の身の上ながら殿のお引き立てにて殿中第一の栄華身にあまりながら、なお他に心を移す不届者めに御座ります。その者は人もあろうに、当家歴代の御霊を預かりまする、菩提寺の和尚柏厳にござります。松江は仏参に事よせ、柏厳和尚のもとへ通いしことしばしばにて、人目もひき、噂にも立ちいる次第にて、尋常一様の交際とは誰の目にも受け取れもうさず、はなはだ怪しからざる仕儀と存じまする。----もし万一、殿の御身の上に宜しからざる謀りごとなど御座りましてはと、我等一同、心痛のあまり、ちょっと殿のお耳にお入れ申したく、夜中推参致せし次第にござります」 恋の闇路に迷っている矩廣である。耳もとで囁かれた悪魔の言葉は、打ち消してもたちまち勢いを盛りかえして胸にせまってくる。矩廣は鈴を振り鳴らして松江を呼んだ。 何事かと急いで駆けつけた松江が、敷居際で平伏していた頭をあげた瞬間だった。「おのれ不義者め!」と、いきなり白刃が松江の頭上に落ちて来た。矩廣の構えが不安定だったのであろう、切っ先は空を斬った。松江はよろめきながら廊下へ走りでた。矩廣はあとを追い、表広間の口で走りながらふたたび一太刀を浴びせた。松江は悲鳴をあげてその場に倒れた。騒ぎを聞き付けた御守役が矩廣を抱きとめた。 松江は傷を負ったものの命はとりとめた。しかし殿の怒りはおさまらず、松江は臣下にお預け、柏厳禅師は熊石の海辺に流罪となった。上使に対して柏厳は「上意畏まりました」のみ応えた。このとき禅師が原因を糾明していたなら、おそらく当時松前藩の紊乱醜情はことごとく世上に暴露され、藩の存在さえ危ぶまれるに至ったにちがいない。 が、事件はこれだけで終わらなかったのである。 矩廣はまもなく江戸詰めになった。そのころから体調を崩し、病床に呻吟する日が多くなった。侫臣どもがまたぞろ矩廣の耳に囁きかけた。 「殿の御悩みは、熊石に流されたる柏厳の呪いの祈祷によるものに相違御座りませぬ。かの柏厳在るかぎり、殿の御悩みの治るときはありませぬ」 矩廣の心はすでに乱れていた。 「おのれ柏厳! 早々あいつめの首を打ち取れ!」 時に延宝6年(1678)12月22日早暁、細界貞利、松村昌次、酒井好種等を首班とする検使一行16人が、柏厳禅師の配流されている草庵の外に立った。雨戸をたたく音に目を醒ました禅師が急いで戸を引きあけた。 「どなた様に御座りまするか」 「御上意だッ!」 「それは遠方のところ、お役目ご苦労に存ずる。さて、拙僧に如何様の御上意に御座りましょうか」 「汝柏厳、初め侍女松江と不義密通なし、すでに打ち首に相成るべきのところ、寛大の思し召しをもって、当熊石に配流申し渡されしを御慈悲とも心得ず、なおかつ主君の不祥を祈り奉る由不届き至極、その罪許すべからず、よって斬首を申し渡すべきもの也」 「委細畏まって御座ります」 柏厳禅師は静かに平伏し、やがて言葉やわらかに、 「出家のたしなみも御座りますれば、暫時御猶予のほどを願いとう御座います。首をお渡し致します前に、衣服を改め、最後の読経をいたしたく存じますれば、この儀、なにとぞ御許し下されたく存じます」 禅師は急いで仕度をととのえ、それからは常のごとく日頃信奉する『大般若理趣分経』一巻を読み終えた。 「ひどく御暇をとらせて相済み申さぬ。いざ存分にお討ち取りくだされい」 庭前の小川のほとりに端座して首をさしのべた。 電光一閃、禅師の首がころがり落ちた。そのときである、小川の水が轟音をたてて逆さまに流れはじめたのである。検使の一行は首を桶に納め、あわてふためくようにその場を立ち去ろうとした。暁の明るい光がわきでた黒雲の陰に消え、激しい雨が降り出した。雨は風を巻き起こし、唸りをあげて石を吹き飛ばした。 突然の暴風雨のなかを恐怖に震えながら、それでも一行は首桶を担いで上の国村(現・檜山郡上ノ国町)天の川までやってきた。川は濁流となって氾濫していた。とても渡れるものではない。やむなく江差まで引き返した。 その夜は、江差の円通寺に泊ることになり、首桶は御堂の内陣に安置し、一行はそのそばで通夜をすることにした。怪異がおこったのは深夜にはいってからだった。 禅師の首桶の周囲から一抹の炎がチョロチョロとたちあがった。通夜の番をしていた者たちがギョッとして声をあげたときには、火焔は勢いを増してメラメラと燃え、たちまち天井を舐め尽した。紅蓮の焔は波打ち、風を呼び、降りしきる雨のなかで大伽藍が焼け崩れた。首桶は跡形もなく消失してしまった。が、火焔のなかに柏厳禅師の首が生けるがごとく立っていた。眉毛一本焦げていなかった。 この火事と怪異の顛末は急使をもって福山城に知らされた。城中では重臣総登城して評議をした。 「罪なき高徳の出家を斬首せる天罰ならん。さればとて、かくのごとき首を城中に入れなば又いかなる障害の起らんもしれず。ここはすみやかに首を熊石に送り、遺骸とともに厚く葬りてその罪を謝するに如かず」 こう議決して首を熊石に送ってもとの庵のそばに丁寧に葬り、さらに一宇を建立して門昌庵と名付けた。 以後、250有余年にわたり、代々の藩主は春秋2回、必ず門昌柏厳禅師の菩提を帛(とむら)い、慇懃なる法要を勤めた。 以上が松前藩の『門昌庵騒動』である。 ところで焼失した円通寺は浄土真宗東本願寺別院であった。私の家との縁は、曾祖父顕月が寺名を再興すべくもとの場所から数里離れた土橋という地に新しく寺を建立したのである。松前藩の家老職であった二家とそれぞれ姻戚関係にあったので、あるいはその縁も与っていたかもしれない。私が以前この日記で「伯父の寺」と言っているのは、この円通寺のことである。そうそう、いつだったか私が19歳のときの僧形の写真を掲載したけれども、あれもこの寺の本堂で撮影したものだ。あの写真はそのころまだ元気だった祖母を喜ばせるために撮影した。祖母はカメラの横に坐って、僧形の私にむかって合掌していたのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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