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午後、新橋の写真スタジオに撮影のための作品を搬入。作業日程は2日を予定していたが、カメラマンと撮影方法を打ち合わせた結果、スタジオを変えることになった。もっと大型スタジオが必要だという。
問題は『アダムとイヴの婚姻』で、複雑な技法を使っているのでライティングを工夫しなければならないらしい。私もそうなるだろうとは思っていたので納得。特に、部分的に画肌が浅彫りの上に銀箔を貼っているところがあり、通常の油絵撮影のライティングだと、あがりが黒くなってしまう。いわゆる「銀出し」をする必要があるのだ。また作品のサイズが大きいので、照明の設置等をふくめて、引きのきく広いスタジオに変えようというわけだ。 来週頭のできあがりということにして、あとはおまかせにして帰路についた。 銀座中央通りを4丁目交差点で左折し、数寄屋橋から祝田橋方向に抜けた。数寄屋橋の右斜前方にマリオンがある。昔、朝日新聞東京本社や日劇があったところだ。その前を通ったときはまったく気がつかなかったのだが、午後6時半ちょうどに帰宅して夕刊を見ると、25年前の今日2月15日に日劇が幕を閉じたのだということを知った。 「ああ、もう25年になるのか。あの日は2月15日だったのか」 私はその日のことをまざまざと思い出した。その日、私は日劇にいたのである。 長い間、つまりそれは25年間ということになるが、誰にも言わずに封印してきたことがある。もう時効だろう。----恥ずかしいけれど、打明けてしまおうかな。 私は日劇の正面玄関のガラス扉越しにロビーをみやった。最後の最後であるサヨナラ公演の幕がおりてもうだいぶ時間もたつであろうに、感激と別れがたさに招待客や往年のスターたちがにぎやかにロビーを行き交っていた。時刻は夜の10時を過ぎていたかもしれない。私はそれまで友人達と銀座の安酒場で飲んだくれていたのだ。私たち一団はアッチへふらふら、コッチへふらふらしながら日劇前までやってきた。そしてここで解散することになった。有楽町駅がすぐ近くだし、地下鉄もここからもぐり込める。私たち一団も、飲み疲れて沈没しかかっているのもあれば、まだこれから新宿あたりで飲み直しを相談している者もいて、なかなか別れられないでいた。日劇のガラス扉をへだてて内と外で、ウジャラウジャラやっていたわけである。 「山田さんはどうする?」と聞くので、 「いや、ここで帰らせてもらうよ」 「なんだ、来ないの? 行こうよ、新宿へ」 私は一刻も早くその場を立ち去りたかったのだ。私の頭の中は「ある所」をさがして、火花が散っていた。じつは急に腹痛が起きていたのである。さがしていたのはトイレであった。 「それじゃァ、さよなら」 みんなを送ってから、私は日劇の地下に駆け込んだ。そこは小さな酒場などが店をつらねているのだが、もう数カ月以上前に店じまいしていて、無人の地下街と化していた。すでにどこかで解体工事が始まっていたのか、それとも日劇の舞台の解体の音なのか、ドスンドスンという音が遠くから響いてきこえた。それでも明かりはついていたし、私自身が入れたので、まだ完全には閉鎖されていなかったのだろう。とにかく目指すところにかけこむことができた。そして無事目的を完了した。 そこまではよかった。 私は水を流した。その途端だった、ゴーッというものすごい音とともに水が流れ、私はあわてて飛び退いた。「なんだ!」 水が止らないのだ。ハンドルをガタガタ動かしてみたが、水は流れつづけている。その音が無人の地下街にひびきわたった。私は茫然としてその流れを見ていた。出るものも引っ込む驚き、と云っても、すでに出してしまったからそれはいいとして、出てる水が引っ込まない驚き。 酔いもなにもすっかり醒めてしまい、ここは逃げるにしくはないと、あわててベルトを絞め直して外にでた。横目でロビーを見ると、先程のにぎわいはもうなくて、明かりを落したなかに花輪などを片付ける人の姿だけであった。 その後、その水はどうなったか!? ----知らない知らない。このトイレ事件は日劇の終わりとともに、私の胸に、私だけの秘密としてしまいこまれたのだ。 25年目にたまたま昔の日劇のそばを通り、そして今日の記念日を知った。 こんな話でしめくくっては日劇に申し訳ないので、私のほんとうの日劇の思い出も語っておこう。 私の世代は、日劇レビューよりも「ウエスタン・カーニバル」の時代だ。それも平尾昌章や山下敬二郎やミッキー・カーティスではなく、西郷輝彦がデビュー曲の「君だけを」を歌って、場違いだなどと言われた頃。----ではあるが、私が見にいったのは「ウエスタン・カーニバル」ではない。 この日劇の上の階に日劇ミュージックホールというのがあった。日劇と入口が別で、左手にあった狭い入口で「ガクセイ」と小声でチケットを買って入る。なぜ小声かって? ここはヌード・ダンス・ショーの小屋なのだ。谷崎潤一郎もお気に入りだったらしく、文豪は常に奥様同伴で外出するけれども日劇ミュージックホールへは同伴したことがなかったそうだ。まあ、そういう所ですよ。 春川ますみ嬢もこのホールの踊子だった。私のお目当てはアンジェラ・浅丘嬢。妖艶な彼女のヌード・ダンスを見たくて、小さくなって行ったものだ。このブログを見てくださる方で、アンジェラ・浅丘を御存知の方はいるだろうか。私が学生のころ引退してしまったので、たぶん私は彼女の最後のファンのひとりではないだろうか。私はその頃、ブリジット・バルドオが好きで、映画『私生活』のなかで彼女がマストロヤンニの首に両手を巻き付けるその指に慄然としたり、『血と薔薇』のハイヒールを履いた後ろからみた足首にうっとりしていたのだが、アンジェラ・浅丘嬢の唇はちょっとブリジット・バルドオに似ていたのだ。 日劇ミュージックホールは小さな小屋で、谷崎潤一郎は最前列から3列目くらいを定席にしていたらしいが、全部で10列くらいしかなかったので、たとえ最後部の席でも踊子の一部始終が良く見えるのである。誤解のないように言うけれど、ヌード劇場といってもいわゆるストリップ小屋とはちがい「上品」なもの。外国人客が夫婦連れで来ていたりした。 ウエスタン・カーニバルへ行かないで、その上の階に行っていたのだから、マセていたのかもしれない。いわゆるストリップ小屋にも行ったことがあるけれど、こっちはつまらなかったな。やっぱりアンジェラ・浅丘のヌードを見ていたほうが良かった。 忙しいのだから、こんな話をしている場合じゃないが、ちょいと口がすべってしまいました。では、きょうはこれまで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 16, 2006 02:58:41 AM
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