平賀敬氏は、桜舞い散るなかで繰り広げられる淫らな光景を、華やかな色彩で戯画的に描く特異な作品で国際的に評価されていた画家である。1936年東京に生れ、2000年に没した。私は絵の本格的勉強を始めた25,6歳の頃、平賀氏に2度お目にかかり、絵描きとしてのアドヴァイスを頂戴している。私がいわゆる「本当の」画家に会った初めての人であり、私の作品を見ながら具体的なアドヴァイスをしてくれた唯一の画家だ。2回の対面は、たぶん合計しても1時間程度のものだったと思う。しかしこの時の平賀氏の言葉がなければ、もしかしたら私はプロの画家にはなっていなかったかもしれない。
それはある小さなコンクール展の会場でのことだった。私のB3大の作品が選外佳作ということで、隅のほうに展示されていた。私にとって一般公開された初めての展覧会だった。私は会場へ出かけた。ちょうど観客が引いて一段落したような時間だった。ひとりの男性が手持ち無沙汰のようにたたずんでいた。
私は自分の作品を見つめた。それは『POE』という題名のペンと水彩で描いたものだった。Poeとは勿論エドガー・アラン・ポーのこと。『アッシャー家の崩壊』を題材にしていた。画面の下、暗い地面のなかに大きな目が二つ並び、眉間から上に崩壊する洋館が樹木のなかに廃墟のように建っていた。樹木は画面の両側から大きく枝をのばし、それは巨大な翼をひろげるフクロウになっていた。上部中央に白抜きでPOEという文字。
「あなたの作品ですか?」
例の男性が声を掛けてきた。
「はい」
「私は平賀敬といいます。あなたの絵を気になって見ていました。やろうとしていることは分るが、描写が中途半端です。途中で息切れしています。こんどあなたの作品をもって私のところへいらっしゃい」
いきなりこんなことを見知らぬ人から言われたら、普通はどういう返答をするのだろう。
私は何の疑念も抱かなかった。この人の批評は正鵠を射ていると思ったのだ。たとえば、崩壊する洋館をどのように描写すればよいのか、私はいくら考えても想い浮かばず、適当にやっつけていた。そのくせ最初に描きたかったフクロウの翼は、ペンで丹念に描写していた。私はB3という画面のおおきさに四苦八苦していたのである。
「ありがとうございます。すぐにでもお伺いします」
あとで調べて分ったことだが、平賀敬氏はそのころパリに在住していて、たまたま帰国していたらしいのだ。1964年の第3回国際青年美術家展で大賞を受賞し、それがパリ留学賞だったので、翌年渡仏する。完全に帰国したのは10年後の1974年だそうだから、私がお目にかかったのは在仏期間のことだった(私の記録を調べたところ1969年の7月頃である)。
数日後、私は描き溜めた作品を平賀氏のもとへ抱えて行った。平賀氏は1点1点見てから、
「あなたは何かを持っていると思いますよ。だけど今はまだ未熟で、先日も言ったように、みな途中で息切れしている。----絵に体力がない。描き始めたら終わるまで、体力を持続する。その訓練をしたほうがいい」
平賀敬氏のアドヴァイスはほぼこれで全てである。しかし私にはこれで十分だった。
私の「描く持続力」の訓練が始まった。私が採った方法はペンによる点描画を描くことだった。A3の紙に丸ペンとインクで描いてゆく。点と点は互いに重ならないように、注意深くペン先を立てて点を置く。点を打つのではなく、まさに置くのである。
その頃のペン画がこの遊卵画廊にも展示してある。私の右中指はいつも血だらけだった。ペンを持ちつづけているため肉が裂けてしまうのだ。痛みに耐えられなくなるとバンソーコを巻いたけれど、傷は癒えるひまもなかった。現在でもその部分はタコになって残っており、ほんの少し指が歪んでいる。
こうして訓練として開始されたペン画は、1974年度の『日本のイラストレーション』(講談社刊)に選定掲載された。
雑誌等では、駆け出しのイラストレーターは、コスト高なカラーページは持たせてもらえないことが多い。その点私のペン画はモノクロページの需要があったのである。体力養成のために始めたことが、プロフェッショナルな仕事の場に直結したというわけだ。
平賀氏にはその後お会いする機会はなかったが、私はことあるごとに平賀氏のアドヴァイスを思いだすのである。
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