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母が見たいと願っていた映画『怒りの葡萄』のDVDがインターネット・ショップから届き、さっそく家族そろって鑑賞におよんだ。私は昔見ている映画なのだが、いっしょに観ることにした。
原作ジョン・スタインベック、製作ダリル・F・ザナック、監督ジョン・フォード(アカデミー監督賞受賞)、脚本ナナリー・ジョンスン、撮影グレッグ・トーランド。出演はヘンリーフォンダ、ジョン・キャラダイン、ジェーン・ダーウェル(アカデミー助演女優賞受賞)。 [あらすじ] オクラホマは毎年物凄い砂嵐にみまわれ凶作がつづき、貧しい小作人たちは食うや食わずの苦境にあえいでいた。殺人容疑で入獄していたトム・ジョードが4年ぶりに帰ってきた家には家族の姿はなかった。一家は新しい土地と仕事をもとめて故郷を立ち去ったのだ。トムはやがて家族に再会するが、一家はさらに2000マイル彼方のカリフォルニアめざしてオンボロ自動車に家財道具を山と積んで苦難の旅をつづける。 途中であいついで祖父母を亡くし、やっとありついた仕事も、浮浪者たちの襲撃のうわさに怯えて捨てた。次にありついた桃摘みの仕事に一家は安堵するが、農場にたちこめる異様な雰囲気にトムは気付く。農場主の詐欺まがいの搾取が横行していて、労働者たちの怒りが爆発、ストライキがおこなわれていたのだ。 トムは小作人たちのストライキということを初めて聞き、それを指導するケリーという男の「このまま言いなりになっていては飢え死にしてしまう。みんなで団結して現状を変えていかなければならない」という言葉に胸をうたれた。 しかしケリーは農場主に雇われた用心棒たちに襲撃され撲殺されてしまう。その場にいたトムも顔を殴られ、思わず相手を殴り殺してしまった。 追われる身となったトムは、ふたたび一家をつれて農場を立ち去る。 次にたどりついたのは日雇い労働者の自治にまかされている国営農場だった。衛生的で、明るく、開放的なそのキャンプにトムは目をみはる。しかしそれを心よく思わぬ周辺の農場主はアカ狩りと称して陰謀をめぐらせ、この農民自治組織を解体しようと機会をねらっていた。ある日、保安係が車の登録ナンバーを調べているのを見たトムは、自分が捜索されていると勘違いし、かばおうとする母に別れを告げて闇のなかへ逃走してゆく。 頼みの杖だった息子に去られ、しかし母親はなおも一家をひきいて強く生きなければならないと思うのだった。 この映画は出演俳優の顔がみなすばらしく、グレッド・トーランドの白黒の撮影もみごとだ。それぞれのカットの構図が引き締まっていて、貧しい「移動農業労働者(オーキー)」たちのボロ衣装、ボロ家財道具、なにをとっても惨めでないものはないのだが、深く美しい画面である。編集のテンポもいい。トムが母に別れを告げる場面は、ヘンリー・フォンダとジェーン・ダーウェルのそれぞれの眼にアイ・スポットライトを入れて撮影しているのか、眼にやどる光がふたりの真摯な心情をきわだたせる。フォンダの眼がすばらしい。ジェーン・ダーウェルの母親も繊細なリアリズム演技が冴えに冴えて、アカデミー助演女優賞受賞も当然と思えた。 ところで原作者スタインベック(1902-1968)は、1929年『黄金の杯』で小説家としてデビューしたがあまり注目されず、32年の短編集『天の牧場』で社会派の旗手と目されるようになった。アメリカ国内は1930年代に大不況にみまわれ、スタインベックはそういう社会的状況のなかで貧しく虐げられている者たちを書いたのだった。1937年『二十日鼠と人間』を経て、1939年に発表した『怒りの葡萄』はピューリツァー賞ならびに全米図書賞を受賞。翌1940年に映画化された。 ハワード・タイクマンが200時間におよぶインタビューをして書いた伝記『ヘンリー・フォンダ』によれば、スタインベックはヘンリー・フォンダの人生に影響を与えた重要な人物だという。フォンダは名前を忘れた誰かからこの作家の短編集『長い谷間』を贈られ、一読してすっかり魅了された。そして即座に本屋に車を走らせ、3册の本を購入。さらにベヴァリー・ヒルズとウェストウッドのすべての本屋をまわってスタインベックの著作本を集めた。その噂をききつけた彼のエイジェントが、ジョン・フォード監督が『怒りの葡萄』を撮る準備をしていて、トム・ジョードの役にヘンリー・フォンダを望んでいると電話をしてきた。「それはすごい!」とフォンダは言った。 しかしプロデューサーのザナックは辣腕で知られていた。フリーの俳優だったフォンダをこの役と引き換えに7年間拘束する条件をつきつけ、フォンダはそれを呑まざるをえなかったという。 このダリル・ザナックがプロデュースした映画だったからだろうか?---と私が思うのは、じつはこの映画が撮影された当時、アメリカは共産主義者追放(いわゆる赤狩り;Red purge)の真っ最中だった。1938年に非米活動委員会が創設され、各分野から共産主義者をあぶりだしていた。人間の基本的人権を一方的・恣意的に侵害してはばからない悪魔的な制度が公然と実施された。その魔手はハリウッドにもおよびはじめていたのだ。猛威をふるうのは47年4月以降だが、共産主義を信奉していなくともその言葉を口にすることさえできなくなっていた。 (註:同じころ日本でもアカ狩りがおこなわれていた。私が4,5歳ころで、父たちがそういう話をしていたのを覚えている。ちなみに映画『怒りの葡萄』が日本で初公開されたのは、製作されてから22年後の1962年である。) 『怒りの葡萄』はあきらかに「アカ」的な小説であり映画である。原題は‘The Grapes of Wrath’で、日本語の題名は直訳なのだが、英語のgrapeには「団結」という意味があるのだ。資本家の搾取に対する「怒りの団結」が題名の本意である。 前述の伝記『ヘンリー・フォンダ』には、ハリウッドを席巻したアカ狩りのことは語られていない。したがって映画『怒りの葡萄』製作をとりまくその側面についても一切書かれていない。そこが不思議である。 スタインベックはずっと社会派作家といういわばレッテルを貼られてきた。1952年に『エデンの東』を発表し、1962年にはノーベル文学賞を受賞している。しかし、アメリカ国内の批評家にはかなり冷たくあしらわれていたようだ。ノーベル賞受賞後から死までの6年間さえ、その境遇は決してめぐまれてはいなかったらしい。むしろこの偉大な作家の晩年は惨めだったといってよいだろう。 映画『怒りの葡萄』は思想狩りの不穏な状況下で1940年度のアカデミー監督賞と助演女優賞を獲得した。 ハリウッドの映画人たちにはまだ心意気があった。仲間を「密告」しあうように罠にはめられ、息の根をとめられるのは前述のとおり1947年4月以降。非米活動委員会は、現在「ハリウッド・テン」と呼ばれる10人の映画人に狙いをつけ、共産主義者を密告するように締め上げたのである。やはりスタインベック原作『エデンの東』を後に映画化(1955)したエリア・カザンはこの魔手に首根っこをつかまれ、仲間の監督ジョセフ・ロージを売ることでハリウッドで生き延びた。ジョセフ・ロージはヨーロッパへ脱出し、アメリカへ帰ることはなかった。エリア・カザンはこのときの密告と転向を生涯悔いて、ハリウッドの赤狩りについて頑に口をとざした。 一方で、原作者ジョン・スタインベックは敬して遠ざけられていたのか、根っからの冷酷な仕打ちにあっていたのか、いずれにしろ淋しい晩年をおくってニューヨークの寒い冬に心臓病で亡くなった。 家族といっしょにDVDを鑑賞しながら、私はひとりそんな思いにふけっていた。現在日本の教育現場では、愛国心をめぐって各自治体の条例による規制のもとに踏み絵をふませる、かつてのアメリカに似たキナ臭い状況が徐々に出現しているからである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 26, 2006 01:33:08 AM
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