散歩をしていたら鯉幟をあげている家があった。おや、気が早いことだと思ったものの、もうことしも4月半ばだ。そして15日は謡曲『墨田川』にちなむ梅若忌。旧暦の時代には3月15日だったようだが、墨田川のほとりにある木母寺では大念仏が修せられる。
謡曲『墨田川』は、世阿弥の息子である観世十郎元雅の作。父をして天才と言わしめた人だが、足利教義将軍に疎んぜられて、世阿弥の跡を継ぐこともなく失意のうちに世を去った。作品には他に『盛久(もりきゅう)』や『弱法師(よろぼし)』があり、いずれも現在かなり頻繁に上演されている。
『墨田川』が材に取ったのはひとつの伝説である。京の都の公卿・吉田少将惟房の一人息子梅若丸は、陸奥の国の藤太という人買いに誘拐された。はるばる東国の墨田川までやって来たところで、梅若丸は重篤の病におちいってしまう。都育ちの御曹子には言語に絶する苦難の旅であったことだろう。ところが人買いは病の梅若丸をその場に遺棄してしまったのだった。梅若丸はそのまま息を引取った。天延4年(976)3月15日、そのとき梅若丸は12歳だったという。
隅田川のほとりに梅若塚という小さい御堂がある。30年くらい前のことになるが、由来を書いた看板が立っているとはいえ、半ば崩れかけたような御堂だった。現在はどうなのだろう、行っていないので分らない。近くに木母寺という寺があるが、伝説の梅若塚のあった場所はそこらしい。木母寺の創建がいつの頃であるか私は不明だけれど、江戸時代にはすでに建っていた。宝井其角(1661-1707)の俳句にこんなのがある。
木母寺に歌の会ありけふの月 其角
観世元雅の『墨田川』は、じつは伝説のその後につづく物語である。
梅若丸が亡くなった翌年のやはり3月、墨田川のほとりに都からやってきたという狂女の姿があった。これからまた蹌踉として何処かへ旅しようというのか、渡し船にのせてくれという。初めは拒否した船頭も、狂っているとはいえ女の優しい心根にほだされて、舟にのせてやる。そのとき風にのって対岸から念仏の声が聞こえてくる。「あれは何か」と尋ねる狂女に、船頭は人買いに捨てられて亡くなった少年の物語を聞かせる。哀れに思った村人が、塚をつくり、ひともとの柳を植えて回向した。「今日はその命日、念仏法要が営まれているのだ」と。
「その子の名はなんという? 年はいくつ?」
たたみかけるように聞くその女こそ、梅若丸の母であった。かどわかされて行方知れずとなったわが子を探し、悲しみのあまり狂ってしまった母の目に、いま、幼いわが子が駆け寄ってくる。抱きとめようと手を差し出せば、その母のからだを幼子は通り抜けて消えてしまうのだった。----
謡曲『墨田川』は、近年なぜか反戦思想と相俟って上演されることもある。現代の能の番組としては人気曲といってもよい。今私が最後に書いた部分は実際には、幻の子が「見えつ隠れつするうちに、しののめの空明けそめて、わが子と見えしは、塚の上のしるしなるこそあわれなり」とあるだけである。
能という演劇はおもしろいもので、一応の修練をした能楽師であればそれなりの歌舞劇として成立してしまうものだ。失敗ということはまずほとんどない。何事も起らぬだけにすぎない。しかし何度もつづけて観ている間には、優れた能楽師のとんでもない芸を目撃することがある。ただ立ち尽くしているかのような削ぎに削いだ姿なのにもかかわらず、たとえば上に述べたような、幻の子が駆け寄り、狂える母のからだを通り抜けて消えてしまうようなことが舞台上に現出するのである。めったにおこることではないが、それこそ舞台芸術の極地である。芸の真髄である。私はそれを観たいがために能楽堂にでかけてゆく。
さて、ついつい4月15日の梅若忌にちなんだ話しを長々としてしまった。散歩の途中で八百屋の前を通りかかると、店頭に「朝掘り筍」とあるのが目に入った。急に筍飯を食べたくなった。夕食はこれにしよう。すぐさま筍飯を中心にしたメニューを考え、木の芽を買い、独活(うど)を買った。良いアスパラガスがあったのでそれも買った。
我家の本日の夕食。
筍飯(木の芽添え)
網焼き筍
刺身盛り合わせ(鮪中トロ、かんぱち、サーモン)
独活の酢味噌あえ
アスパラガスの黄身時雨れソース
味噌汁(豆腐と若布)
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう