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昨日、映画のなかの画家をめぐって5作品を挙げてみた。私が観たのはそれだけだと思っていたら、新たに3作を思い出した。そこで、追加として、その3作品について述べておこうと思う。
★『カラヴァッジオ』 デレク・ジャーマン監督、ナイジェル・テリー、シーン・ビーン、デクスター・フレッチャー主演。1986年。イギリス映画。 もうひとりのミケランジェロといえば面くらうかもしれないが、もちろん本名である。1571年にミラノに生まれ、17世紀のバロックのリアリズム絵画を創始したミケランジェロ・メリシ・カラヴァッジオをめぐる伝記映画。……とは、ひとくちに言えないだろうなァ。一応、伝記をふまえているものの、画面のあちらこちらに電卓やタイプライターが鎮座し、あまつさえオートバイクさえ登場するのだから。カラヴァッジオの絵が登場するが、バロックのリアリズムというより20世紀の「ニュー・ペインティング」のスタイルだ。それではバッサリひと思いに切り捨てられるかというと、そうもいかない映画的したたかさを具えている。 カラヴァッジオが生まれた年は、あの偉大なミケランジェロ・ヴオナロッティが亡くなって7年後にあたる。イタリア・ルネッサンスは終焉に近づいていた。ヨーロッパ社会は文化の一大転換期にさしかかっていた。1517年、ドイツではルターが宗教改革を唱え、1543年にはポーランドでコペルニクスが地動説を発表。一方、イタリアの巨星レオナルド・ダ・ヴィンチは故国を離れ、フランス王の篤い庇護のもとにあったが、1519年に彼の地で没した。翌年にはラファエロも亡くなっている。文化の中心がイタリアから次第にスペインやドイツやイギリスなどの新教国に移りつつあった。 カラヴァッジオはそのような、いわばイタリア17世紀の裂け目にまるで野獣のように粗暴な姿で登場した。この野獣は、美術史上ですくなくとも私は二人しか知らない「殺人者」の一人である。しかし類い稀なる迫真の描写力をそなえた天与の画才は、高位の宗教者がこの殺人画家をかくまうほどだった。また男色家であり謀略家であり涜聖の輩だった。 監督デレク・ジャーマンの意図は、この17世紀の画家を、20世紀のわれわれの隣人として席を設けることであっただろう。シド・ヴァイシャスやパゾリーニの横に。そしてまた監督みずからの隣人として。 17世紀風な画面のなかにあった電卓やタイプライターやバイクは、20世紀への扉だったのである。デレク・ジャーマンは、カラヴァッジオの画才が20世紀的だといってるのではない。その人格が20世紀的だと言っているのだ。「20世紀はホモセクシャリティーを抜きにしては語ることはできない」と喝破したのは三島由紀夫である。もっとも三島の場合は未来を侮蔑し、あまつさえその未来へ希望をつなげようとしている日本人に対する最大限の侮辱をして自死した。その点、デレク・ジャーマンの描くカラヴァッジオは、17世紀を一気に20世紀と結び付けたことによって、未来をきりひらく人として立ち現われた。 さて、この映画、登場する絵画がまるで現代画のような描写だと述べたが、これはデレク・ジャーマンのしたたかな計算。というのは、絵を制作している場面が何度も出てくるが、たくさんのモデルを配し照明を配して、私たちが画集等で知っている作品そのものを観ているようなのだ。つまり「活人画」なのである。映画のなかで平面的な絵画作品をながめて面白いはずがない。モデルがポーズをとっての「活人画」こそ、映画のなかに再現された「名画」なのだ! ついでながらこの映画のなかで活人画となっている〈果物籠を持つ少年〉と〈キリストの埋葬〉については、私は実物を観ている。 ★『レンブラント』 シャルル・マトン監督、ピエール・デュプエ撮影、フィリップ・シフレ、ゲンナロ・ロザント美術、クラウス・マリア・ブラウンダウア、ロマータ・ボーランジェ主演。1999年。フランス=オランダ=ドイツ合作。 この映画、日本では『レンブラントの贈り物』という胸くそ悪くなるような題名がつけられた。『レンブラント』を『レンブラントの贈り物』と変えて、客足がのびるとでも思っているのか、バカバカしい。 と、一発ぶちかましたのは、この作品がまさに17世紀オランダの巨匠レンブラント・ファン・レイン(1606-1669)的な光と影、そして色調に深く染めあげられた美しい映画だからである。 映画は、レンブラントの回想のかたちをとっている。妻サスキアとの幸せな生活。画家としての輝くような名声。愛児の死による狂おしいばかりの苦悩。新局面を拓く裸婦像にたいするパトロンたちの無理解。そしてサスキアの死。破産。召使女ヘンドリッキエと同じくヘールチェ・ディルクスとを相手にした二股情事。やがてレンブラントの心は若く美しいヘンドリッキエに傾き後妻に迎える。裏切られたヘールチェの告訴。……映画はレンブラントの半生をほぼ忠実に物語ってゆく。 最晩年に至って、語り手がヘンドリッキエとのあいだに生まれた子供コルネリアに変わる。映画のトーンは終始変わらないので、私としてはこの語り手の変化をいささか残念に思う。死を描くとなれば、レンブラントの回想から視点を切り替えなければならないのは当然なのだが、私には、珠(たま)に瑕(きず)の感をぬぐいきれない。 映画のなかにレンブラントの作品が18点登場する。そのタイトルを列記しておこう。 〈エマオでのキリストの2人の弟子〉:〈トゥルプ博士の解剖学講義〉:〈サスキアの肖像〉:〈居酒屋の放蕩息子〉:〈目を抉られるサムソン〉:〈アガタ・バスの肖像〉:〈夜警〉:〈横顔のサスキア〉:〈長老に脅かされるスザンナ〉:〈ベッドの中のヘンドリッキエ〉:〈ダナエ〉:〈ヤン・シックスの肖像〉:〈ダヴィデ王の手紙を手にしたバテ・シバ〉:〈水浴する女〉:〈屠殺された牛〉:〈2人のアフリカ人〉:〈ユダヤの花嫁〉:〈自画像〉。 この映画は2000年度セザール賞美術賞を受賞している。 ★『真珠の耳飾りの少女』 ピーター・ウェーバー監督、エデュアルド・セッラ撮影、ベン・ファン・オース美術、コリン・ファース、スカーレット・ヨハンソン主演。2002年。フランス=イギリス合作。 現在オランダのマウリッツハイス美術館の至宝ともいうべきヨハネス・フェルメール(1632-1675)の3点の作品のうち、〈青いターバンの少女〉とも〈真珠の耳飾りの少女〉ともいわれている作品がある。カンヴァスに油絵具で描かれた46.5cm×40cmの比較的小さな作品である。日本にも2度貸与されているので、ご覧になった方も多いであろう。緑色の不思議な衣装を着て、青いターバンですっぽり頭を覆い、左向きの横顔を肩越しによじってこちらを見ている。かすかに開けた濡れたような赤い唇。その耳に一点の輝きを宿した真珠の耳飾りが印象的に画面をひきしめている。 彼女と絵を見る者の間には何の交渉もない。つまり、作者フェルメールとの間に何の交渉もないということでもある。この少女がいったい何物なのか。映画はそのことを物語ろうというわけだ。 オランダのデルフト焼きタイルの絵付け職人を父にもつ少女グリートは、父親がおそらく仕事中に起きたなんらかの事故で働けなくなり、画家のフェルメール家へ召使女として奉公にだされる。グリートは文字も読めない無教養ながら、美的な感受性は鋭敏だった。そのことは、料理の下ごしらえの玉葱や紫キャベツや蕪を切って、美しく皿にもりつけようとしている冒頭シーンでいち早く表現される。 家を出るとき母親は、「雇い主の家はカソリックだから、お祈りが耳に入らないように塞いでいなさい」と言う。この言葉は、われわれに二つのことを示唆している。ひとつは前世紀初めにドイツで巻き起こった宗教改革の嵐は、ヨーロッパを席巻し、1660年当時のオランダの下層階級はすでに新教に改宗して久かったこと。しかしいまだなお、富裕階級にはカソリックも多かったのである。二つめは、映画のなかで少女グリートがほとんど喋らず、笑いもせず、ただじっと見つめるだけの、その意味をあらかじめ示していると言ってもよいだろう。 実際、この映画は寡黙である。主人公の二人、すなわちフェルメールとグリートには、ほとんどセリフがない。フェルメールの義母が、この画家の家の辣腕のマネージャーとして采配をふるうなかで、まるで追い詰められた者同士のように画家と召使の少女は繊細な美の光のなかで寄り添う。 寄り添う? そう、たしかに寄り添うのだ。しかし、男と女としてではない。 フェルメールにとっては創造をかきたてる対象がそこに存在するにすぎない。とても愛にまぎらわしいのだが、それはあくまでもこれから自分が生み出す美を夢見させるモデルにすぎないのだ。モチベーションを高めるために、なんなら、「愛」と言ってみるかもしれない。 一方、グリートにとってはどうか。美を仲立ちにした階級差を超えた愛のはじまりと、かすかに期待したとしても、何が悪かろう。御主人フェルメールから真珠の耳飾りをつけるように半ば強制されて、ようやく決心して今やピアスの穴を耳にあけようとする。針をフェルメールに手渡して、「やってください」と言う。フェルメールは針を突き刺す。一瞬の鋭い痛みがグリートの身を走る。出血を押さえてやるフェルメール。少女の頬をひとしずくの涙がつたう。その涙を拭うフェルメールの指先が少女の唇に触れんとした刹那、……グリートの心がおのずとフェルメールに寄り添った瞬間、その指はまことに無常に彼女を離れたのだ。 このシーンにこめられた暗喩について、やぼな説明は必要ではあるまい。ただ、この映画のなかなかの見ものは、このすぐあとのシークエンスである。グリートは酒場で遊んでいる恋人のもとへ駆けつけ、酒場から引っぱり出すと、どこか街の片隅ではじめて恋人に身を許すのである。もちろんあからさまなシーンは一切ない。身繕いしているグリートと、それを愛し気に見やっている若者の姿が映し出されるだけである。いや、グリートの目のしたから頬にかけての紅潮と首筋のキスマークを見のがしてはなるまい。 物語をさておいても、よくぞここまで美術を徹底したと私は舌を巻いた。1660年頃のデルフトの街がたしかに斯くあったのだろうと納得させられる細部へのこだわり。オランダ絵画そのままの風景や物たち。肉屋の店頭や、デルフト焼きの藍染めの食器や、窓に嵌められた鉛ガラスの質感、水汲み場の手押しポンプ、冬の日の凍った洗濯物、画家のアトリエの顔料やピペットなどの道具類。家の中のいたるところに掛けられた絵画とその額縁の様式、シャボン玉遊び(それはヴァニタス絵画の重要なモチーフである)。 フェルメールの作品でおなじみのロケーションが、画家の家のなかにそっくりに再現されていることの嬉しさ! ラピスラズリ(群青)のすばらしい青! この顔料が大変高価だったことを、その美しさが語っている。 さて、最後に実物の〈真珠の耳飾りの少女〉について美術的なことを少し述べておこう。 この作品を「肖像画」と呼ぶかどうか、じつは意見がわかれる。というのは、少女が着ている衣装に問題があり、この時代のオランダのファッションではないのだ。いうなれば幻想的な衣装なのである。そのため市民風俗を写したということもできず、フェルメールの作品のなかでも特異なものである。 描写を仔細に見てみると、耳飾りの真珠には輪郭線がない。暗部に対して光のあたっている部分に白が置かれているだけだ。つまり真珠としての暗部は描かれていないのである。これは専門的なことになるけれども、西洋絵画におけるデッサンの理論をそのまま実現しているのである。つまり対象たる物体は、輪郭線によって空間から分離されて存在するのではなく、空間に瀰漫する光が遮られて影をつくり、その明暗によっておのずと物が立ち現われるのである。いいかえればデッサンというのは光と影をつかまえることにほかならないのだ。物体に輪郭線は存在しないのである。 フェルメールの絵画はこの理論の実践的モデルである、それをもっとも良く示しているのが、この「真珠」の描写である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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