|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「東北はどこがよかったですか」
「そうね。陸中海岸はよかったな」 「陸中海岸というと釜石とか宮古のあたりですね」 「ウミネコがいてね。・・・・飛行機から見ると、きっと海岸線が綺麗だろうなァ。豪壮な、という感じですよ」 「猪苗代に三日滞在して、東北を一周というと、1ヵ月ぐらいですか?」 「いや、2週間、ぼくたちは」 「いいなあ」 と、私は自分にいうように言った。 「でもさ、金がもうなくなっちゃった。なッ?」 彼は女に言った。 「北海道に行こうだなんて」 彼女は笑いながら、「もう、ないのよ」 「まァ、いいさ」 そして、話はとぎれた。 青年は座席に頭を押しつけ、目をつぶった。 私は窓に映る疎林をながめやった。ディーゼルの振動音が急に身体中につたわってきた。 「おいっ、マッチあるか?」 私は自分に呼びかけられたと思い、振り返った。しかし青年は気づかない様子で、空のマッチ箱を掌でもてあそんでいた。女は黒革の薄型のハンドバッグを探った。 「ないのか?」 「うん、ちょっと待って、あるわよ」 男は靴で床をタンタンと叩いた。 「あったわ」 女は、その一本を擦って火をさしだした。男は目を細めて、銜えた煙草に火を受けた。女は赤い小さなマッチ箱を男に手渡した。男は天井に向けて煙を吐いた。それは輪になって窓から射し込む陽のなかに物憂気にゆるゆると消えた。 青年が目を細めると、眉間に深い皺がひとつ現われる。整った顔だちに似合わないような、黒い、深い皺だった。 彼は天井に目を向けたまま、唐突に私に言った。それは意外なことばだったので、私は、一瞬、彼が何を言ったのかと疑い、戸惑った。 「会津若松には不良がいる?」 と、彼は聞いたのである。 「え?」 「おたくなんか、関係ないか。・・・・会津若松には不良がいる?」 「不良?」 「知らない? そんなこと」 「・・・・さあ、ぼくは・・・・」 「学校なんかにさ」 「さあ・・・・」 私はしらずしらずのうちに警戒していた。平静を装って、「さあ」と言ったけれども、彼がいったい何を考え、私から何を聞き出そうとしているのかを内心に質していた。私はこの青年と隣り合ったことを悔んだ。少なくともこの指定席車輌は、空席が目立っているのだったから。しかしまた、私のこころの奥に、ある熱意が生まれているのを自覚した。私は青年を注視した。 彼は一度二度、煙草の灰を落した。私はその手元を見つめていた。深く黒い皺が眉間に走るのを見つめていた。 「そんなことはどうでもいいさなッ」 青年はひとりごちた。私に言ったのではなかった。 そして彼は話題を変えた。 「大学は、どういう方面に進むのですか?」 「法律を・・・・」 「へえ、法律か」 彼は笑うように、「じゃ、不良なんて関係ないやな」 私は曖昧に微笑した。 「弁護士か、検事なんだな」 それに私は応えない。具体的目的がなかったのだ。いや、法律を学ぶことと司法家になることとを截然と分けたい気持だった。分けて、何故法律を学ぶのか、と問われても答えられなかっただろう。私は芸術を夢想していた。芸術だけが他を圧倒して眼前に迫っていた。しかしそれはまた単なる夢想であり、憧憬に過ぎなかった。夢想であったことが、とりあえず法律を学ぶということを認めた。私は狡猾にふるまおうとしていたのである。 「弁護士は、学校を卒業して、試験に受かっても、すぐにはなれないでしょう? つまり、何と言うのかな、医者で言うとさ、インターンみたいに誰かに付いて、ある程度年季がね」 「そうですね、・・・・よく知らないんですが、ぼくは」 「権威ある弁護士のもとで研究して。そりゃそうだろうな、じゃないと、ぼくだって信用しないもの。安心していられないだろう?」 「ええ」 「なるんなら、弁護士のほうがいいですよ。検事よりはね」 「検事はいけませんか」 「どうもね、検事ってのはね」 彼は、「ハハハ」と笑った。 隣席の女は、うつらうつらしていたのか、笑い声に驚いて青年を上目に見た。が、すぐに視線を窓外にやった。なんの変哲もない風景が、だらだらとつづいている。 「いろいろ世話になった」 青年は言った。 「は?」 私は聞き返した。 女がこっちを向いた。 わずかな沈黙があった。 私は不思議な感覚に落込んでゆくのが分かった。暑さのせいだったかも知れない。なんだか自分の周囲が白々としていた。ぎらぎら輝く白い日溜まりのなかに、一人ぼんやり立ち尽くしているようだった。それでいて私は、列車の内部を、白いカバーを掛けた座席の列を、青年を、女を、じっと見つめていたのだ。見ているだけで、私は青年の気持も、言っている意味も汲み取ることができないでいた。それは焦燥感だったのだろうか。いやそうではない。私たちは互の気持に関連のない話をしているのである。 女は退屈そうだった。その様子は、私のぼんやり加減とはまったく異なったぼんやり加減なのであった。彼女は青年の口許を見ていた。青年の次のことばを待っているかのように。 「人間は真面目にやらないと駄目だな」 彼はぶっきらぼうに言った。 私は遠い目で、女といっしょになって彼の口許を見た。すると青年の口は、まるで油を注がれた機械のように、あるいは弛まぬ収縮運動をつづける人工心臓のように動きはじめたのである。 「ぼくはね、故郷(くに)は群馬の前橋なんです。親父は質屋をやっていて、かなり店は大きい。親父はぼくに継がせようと考えていたらしい。だけどさ、ぼくは中学をおわると家を出ちゃった。中学だって満足におわったんじゃない。ぼくは憧れていたんですよ、ヤクザの世界に。矛盾ってものがないと考えていたんです。少なくとも一般の社会にはない、ビシッとした締まりがあって、不平等がね、ないだろうと。で、家を出た。親父から勘当喰らっちゃった。ところが、ヤクザの社会なんて矛盾だらけですよ。それは、初めのうちは何にも思わなかったけどさ。いま、つくづく矛盾だらけだと思うな。しかし気がついたからって、ぼくとしては、もう親父のところには帰れない。親父はさ、息子がどんな人間になったって、口でぶつぶつ言っても、喜んで迎えてくれると思うけどさ。そういうものらしいよ、ぼくは知らないが。そういうものだろうな。だがね、ぼくは帰れないよ。素直に帰りゃいいんだろうけど、帰れないんだ。初めて帰りたいと思った時に、帰りゃよかったんだ。 ・・・・ぼくは、他人様を殺(あや)めてしまった。5年間、ブチ込まれていた。ぼくは今年25になるけど、5年間入っていて、この5月に出て来たばかりです。まだ3ヵ月にもならない。そのうち、周りはすっかり変っちゃっていたしさ。ぼくの5年間は、考えると人間の一番大切でさ、必要な5年間じゃないか。そうだろう? もう、どうしようもないよ。ぼくみたいになった奴は、出て来たところで社会が受け入れてくれない。それが分かっちゃうとさ、就職口だってないからな。ぼくがやったことは、5年間のうちに許されて、そういうことになっているが、白い目で見られる。前科者、前科者だろう。それは仕方ないさ。殺(や)ったという事実が消えるわけでもないが、出て来たところで居場所がない。食わなきゃならないものな、また元に戻っちゃうしかない。ヤクザが嫌だといって、ヤクザに戻らないわけにはいかないんだな。ぼくは近頃、そういうことを考える。だが、滑稽だろう? ぼくが考えることじゃないからな。ぼくが考えたって仕方ないよな。第一、ぼくの話なんか聞いてくれる人ないよ。 おたくが今こうして、ぼくの話に耳を傾けていてくれるが、もしかしたらぼくを胡散臭く思い、ムショ帰りだと分りャ、何をされるか分らん、つまらん話を聞かされると、軽蔑しているかも知れない。 失礼なことを言いましたね。だけど、そういう他人の気持は、たいてい見当がつく。いや、あてずっぽう言ったって、そう言えば、当っているんですよ。 ぼくは5年間に、ぼくなりにいろいろ考えた。5月に出て来て、3ヵ月ばかりの間にまた考えた。ぼくは今、ただ無闇に喋りたいだけかも知れない。誰も話を聞いてくれないし、ヤクザの社会でそんな話しないよ。大学ノートに書いてあるんです。もう数冊になった。喋りたいことはみんな書いちゃう。読む人はいないかも知れないが、それでも止められなくなっちゃったな。 おたくは文学や音楽や美術が好きですか? ・・・・好きですか。ぼくも好きです。永井荷風がいい。あの雰囲気が忘れられなくなりますね。いま、荷風の全集が出版されてますね。あれを買うことにした。それから、名前を覚えていないが、『重き流れの中に』。え? 椎名麟三ですか? 『重き流れの中に』・・・・おたくはお読みになった?・・・・是非お読みになったらいいですよ。ぼくは感動したなあ。荷風とその1册。 しかし時々、そういうものを読まなければよかった、と思いますね。何も知らないで、無茶苦茶やっていたほうが、ぼくの気持と折り合いがついたかも知れない。文学のなかに浸り切っている時は楽しいよ、それはね。が、それだけなんだ。つまり、そこから現実の生活のなかに何ものかを引出してくることはできない。だって、ぼくの立場では通用しないですからね。ぼくの内部で、ぼく自身がふたつの方向に分離して行く。こういう言い方は嫌だなあ。こんなことは、ぼくだけの問題で、しかも問題にしなければならないぼくは、どうでもいい存在だからな。他人様を殺(あや)めてしまったあの日から、ぼくは、あらゆる人、あらゆる事柄と無関係な人間になってしまった。だって、そうでしょう? ぼくに、発展なんてないのだから・・・・」 青年と女は、小山で列車を降りていった。 これから何処へ行こうとしているのか。 私は車窓の向うに去って行くふたりの姿を見やった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|