さて三が日も間もなく15分ほどで終わる。松飾りは7日正月まではおろさないが、明日からはまた一生懸命に仕事をしよう。この三が日、私は近年めずらしくほとんど何もせずに、音楽を聞いたり、テレビを見たり、ときどき勉強のまねごとなどをしてゆっくり過した。皆様はいかがでしたでしょうか。
今年の抱負といっても、3,4件の数カ月先のスケジュールが決まっているだけで、特に確かな目標があるわけではない。とはいえ、社会不安はいや増しとも思え、それに対して黙していることはできない。すくなくとも自作において自らの考えを確かめつつ、意志は表明する必要がある。意志の曖昧さは、ファシズムを助長するだけだ。それは歴史をただしく検証すれば、たちまち明らかになることである。
歴史学というのは不思議な学問である。科学的と情実とをなかなか分つことができない。場合によっては、学問というより、むしろ幻想論になってしまいかねない。特に日本においては、科学的歴史学の出発は遅れに遅れていて、現在でも「歴史観」という一種の恣意的主観に左右されている。歴史学者はそれを恥じとも思わぬらしい。
「歴史観」を否定するのではない。どのような観点に立つかが問題である。まずは批判し、高度な未来理念をつくりだしてゆくものでなくてはなるまい。われわれは常に、過去を乗越えなければならない。捨てて進まなければならない。良き過去などはない、と観念すべきであろう。もどるべき過去はないのである。
しかし、未来は常に霧につつまれていて見えない。理念を据えても、現実にどのように歩んでゆくか、つまり制度(システム)をどのように構築してゆくかが分らない。そのときに、われわれが参考にするのが歴史学の成果なのである。私にいわせれば、そこに戻らないための参考資料ということだ。われわれは過去という屍を超えることによってのみ、未来があるはずである。
そういう屍のひとつを乗り越えるためでもあるが、いま私は女性学を勉強している。といっても単なるフェミニズム論ではなく、生殖学や遺伝子学、また創世記のはじめから女性差別をして現代に至っている宗教の論理構造についてや、それと歩みをともにしている図像についての検証をふくんでいる。
これは、長らく制作している「新アダムとイヴの誕生」シリーズに関わっている。男性としての私が、「新イヴ」を創造しようとするとき、私自身が古い、人間的にはまったく邪悪な文化にがんじ絡みにされていることを感じずにはいない。私のイメージがその邪悪なイメージから自由にならないのである。これは大変なことになっている、と私は思っている。もし私がそこを抜け出すなんらかのヒントがつかめれば、「イメージ」について、いまより深いところへゆけるのではないかと考えるのである。
なんにもせずに、三が日を過しながら、ときどきぼんやりそんなことを思いめぐらしていた。そこらへんに私の抱負らしきものがある。
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Last updated
Jan 5, 2007 03:57:18 PM
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