きのうは大寒。東京は寒い一日だった。街が灰色のまるで靄のような冷たい気におおわれていた。しかし関東近県でも三月初めのような温かい地方もあったという。
ことしは世界中で気候の異変がおこっているらしい。アメリカのコロラド州デンバーあたりは大寒波だそうだ。ところがイギリスのスコットランドではたいそう温かく、例年なら鮭が遡上して産卵する季節なのだが、その産卵が遅れているのだという。
温暖な冬というのは、私のような自由業の暮らしをしている者には結構なことではある。昔のことだが、新しい住まいを探していたとき、東京を出てもいいと思っていたので、不動産屋に頼んであちこちの土地の写真資料などを送ってもらっていた。なかなか気に入った物件がみつからず、そのうち様々な夢想がまじってきた。四季がはっきりしているのもいいな、などと考えて、北国も探索してもらおうと電話した。すると、私より若い担当者が、「それは考え直したほうがいいかもしれません。温暖な東京の暮らしに慣れた人が、年をとってから寒さが厳しい雪国に移住するのはお勧めできません」というのだ。なるほど、たしかにそのとおりに違いない。東京に住んで30年、いまでは40年を過ぎているが、それ以前は雪国に住んでいた。家の周囲の雪掻きもたいへんだが、屋根の雪降ろしはもっとたいへん。東京暮らしで軟弱になった肉体では、年をとらなくてもお手上げになることは、言われてみれば目に見えている。
・・・そんなわけで、東京暮らしをつづけることとなった。温暖な冬ということを耳目にするたびに、あのときの若い不動産屋氏の説得を思い出すのである。
さて、きょうの日曜日、きのうの寒さは去って、朝から良く晴れあがった。昼食後、私はひとりで外出した。ジャケットを一着誂えようという次第。私のサイズを持っている店に行ったが、既製服のところでふと目に入った一着があった。私の体型はほとんど一定してあまり変化がないのだが、店側にいわせると背筋が反りぎみらしい。また見た目より肩幅があり、やや怒り肩だとも。そのため、若い頃から既製服をほとんど着たことがなかった。しかし、目に入ったジャケットを試着してみると、これがピッタリなのだ。
「御痩せになりましたか?」と店員がいうので、「自分では変わっていないと思っているのですがねー」と応え、「これピタリですね。丈もいいでしょう? これを貰うことにします」
たちまち買い物はすんでしまった。ものの15分だ。「なーんだ、標準体型じゃないか」と心中につぶやいた。予算よりずっと安上がりになった。
ウッフッフと、ほくそ笑みながら、よし、古書を見に行こう。
しかし、そうそう都合良く欲しい本が見つかるわけでもなかった。手をのばして頁をパラパラめくるが、いずれも食指がのびない。収穫なしと見限って、ふとレジ脇の棚に目をやった。するとそこに妙なぐあいに展示してある一冊があった。棚にならべているのではなく、薄いプラスチックの袋に入れて、棚に打ち込んだ釘にぶらさげているのである。B6判の30頁そこそこの薄い冊子だ。表紙に小さな欧文活字がならんでいる。
「ウン?」と、目を凝らした。見覚えがあったのだ。で、目を近付けた。
ロベール・デスノス『エロティスム;L'EROTISM』、澁澤龍彦訳。
「やはりそうか」と、思ったのは、この本は私の蔵書にあるのだ。しかも入手にはちょっとした思い出あった。私が購入たのはもう25年ほども昔だが、当時からすでに稀覯本の名を高くしていたので、それを見つけたときはいささかあわててしまった。ちょうど財布には持ち合わせがなく、胸をどきどきさせながら近くの銀行に走ったのだった。たしか5千円だった。薄っぺらなパンフレットのような一冊の値段である。
棚にぶらさげられた『L'EROTISM』は、もし棚にならべては他の本の間に完全に埋没してしまうからそのように展示しているのであって、ぞんざいに扱っているわけではない。なんとなれば、価格は小さくつつましく書かれてはいるが、なんと6万3千円とあった。25年前に私が買った価格の12.6倍である。
店主がちらりと私を見た。私は心のなかで、「持っているんですよ」と応えた。そして店を出たのだった。
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