午後、自転車で外出していたところ、一天にわかに掻き曇り、雷鳴とともに叩き付けて雨が来た。私はたちまちずぶ濡れ。肌着をとおし、下着をとおし、まるで服を着たままスイミング・プールに飛び込んだようになった。鼻先から水がしたたり、さぞかし良い男ぶりだったことだろう。店先には雨宿りの人たち。
その人たちを横目に見やりながら、ふと思った。たまたま私は自転車走行中に雨に降られたのだけれど、店先にいたとしても、雨もようをはかりながら小降りになるのを待ちはしなかっただろう。せっかちなのかどうか、私は雨宿りなどしない性分だ。この性分は、もしかすると亡父から受け継いだ気質かもしれない、と。私の父親も、雨が降ろうと槍が降ろうと、不意の天変にとんちゃくする人ではなかった。
私は62のこの歳まで、父に似たところがあると思ったことは一度もない。誰かに似ているなんて真っ平。日本人はかなり頻繁に他人にむかって、「誰それに似ている」と無礼な口をきく。私はそれを認識発達の幼児的な段階と判断し、そんなことを口に出した人とはつきあわないことにしている。ことほどさようであるから、父親と似ていると考えるだけで、生理的に辟易する。
だから、雨宿りの人たちを見やりながらの不意の感慨に、いささかならず愕然としたのである。
ぐっしょり濡れて、ペタルも重く感じる。風も吹き、遅咲きのポッタリした八重桜の花弁が渦をまきながら散った。路傍に吹寄せられ、桃色の厚いちぎれ雲のようだった。掬って持ち帰ろうかと思った。父はそんなことを微塵も思いはすまい・・・
雨の粒がしだいに大きくなっていた。
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