午前0時15分から2時までNHK・BS2で「昭和演劇大全」シリーズの山本安英の会『夕鶴』を観ていた。昭和44年(1969.1.18~2.25)東京・砂防会館ホールにおける舞台の録画である。
この砂防会館ホールの公演を私は実際に観ている(2月24日)。そしてたまたま作者であり演出の木下順二氏にお目にかかりことができ、パンフレットに御署名を頂戴した。そのことについてはすでに06年11月30日の日記に書いた。御署名の画像も掲載している。
というわけで、テレビ録画の日にちは示されなかったが、再見できるのも思いがけず、たいへん嬉しかった。
あらためて同公演のスタッフとキャストを述べれば、
作・演出:木下順二、美術:伊藤熹朔、照明:穴沢喜美男、音楽:團伊玖磨、効果:岩淵東洋男、衣装:森亮子。
つう:山本安英、与ひょう:宇野重吉、惣ど:下条正巳、運ず:米倉斉加年。
物語はいうまでもなかろう。「つる女房」として知られる民話を下敷きにしている。上演時間にしてわずか1時間ほど。
一見他愛無いような物語だが、日本の現代演劇史のなかでひとつの頂点にたつ。伊藤熹朔(俳優座の重鎮だった千田是也氏の実兄)の舞台美術は単純化された様式的なものであるが、そこでくりひろげられるドラマは端倪すべからざる深さのある重厚なものである。
山本安英のセリフ術のみごとさ。そして無言の長い間に持続する稠密な情感演技。人間の肉体に抽象的に現われる鳥の面影。下条正巳の確かな存在感、その表情のすばらしさ。宇野重吉の無邪気さ(純粋)の表現。純粋と一口に云うけれど、それを表現するのは至難の技。宇野重吉の演技は、「バカ」とは見えないのだから、その程の良さは見事である。幕切れの表情のなかにある悲哀、真摯さ。与ひょうの体験は一種のイピファニー(Epiphany:神聖顕現、接神体験)とも考えられるが、その神秘体験者の呆然としてニュートラルな表情を、宇野重吉はじつに適確に表わす。
子供たちと遊びつかれて炉端で寝込んでしまった与ひょうを、つうは純白の着物の両腕を翼のようにひろげてかき抱くように覆いかぶさる。すばらしいラブ・シーンだ。思えば「つる女房」は異類婚説話なのであるから、有りていにいえば人間の男と鳥との性交の物語。当然、その閨房(ベッド・シーン)があれやこれや想像されて然るべきなのだ。
上記の山本の演技はその昔からの民衆の無意識にきっちり応えているのである。『夕鶴』は子供向けの芝居ではない。たとえ異類婚説話の民俗学的意義や仏教教学的な意味に思い至らなくとも。番組解説者の渡辺保氏が、「この劇には舞台上に現われない裏の場面がある」と言っていた。渡辺保氏が考えている「裏の場面」が、何をさしているか、実のところまったく不明ながら、しかし、指摘は鋭い。
夫婦の型とか純愛を思うこともできる。また、資本論や労資問題をそこに見るむきもなくはない。そのように解釈せずにはおれない時代的な要請もあったのだから。
だが、事は、幕があがる以前に、与ひょうがどうやら傷ついた一羽の鶴を救けているらしいこと、そしてその事件からほどなく一人の女が家の戸をたたき、あまつさえ居着いて夫婦になっていたという事実。この与ひょうの体験。・・・与ひょうにとってはきわめて自然な成行きながら、他人に口にしてしまえばまことに奇怪な話。たとえこの時点で、救助した鶴と女房となった女とが同一であると結びついていなくとも。・・・やがて二反の美しい織物を与ひょうに残して、女は何処へとも知らず去ってゆく。折も折り、この事件の周辺にいた人々は遥かな空を飛んでゆく一羽の鶴を目撃する。
与ひょうの女房だった女と鶴とを結びつけて考えた人は、不思議な事件の立会人になったわけだ。しかし、与ひょうの意識のなかでは結びついてはいない。彼はある日あるとき、何事かの当事者になって無意識のうちに魂の浄化を経験した。私が一種のイピファニーと言う由縁だ。・・・これがこの物語の全貌である。
上記のスタッフ・キャストを一瞥すれば分るように、みなさんがそれぞれの分野で輝かしい仕事をしている。このわずか1時間の芝居がどのような知恵の結集であるか、「昭和演劇大全」という番組タイトルの観点にたてば、その芸術的成果は納得できよう。木下順二は『夕鶴』を山本安英のために書き、山本安英が存命中は他の人が演ずることを許可しなかったと聞く。むべなるかな。彼女によってこの民話劇は完璧にむかって広大で深甚な耕作がおこなわれていたのだから。私が観たときで上演回数は優に500回を越していた。観客はそのたびに山本安英によるすこしづつすこしづつ新たな『夕鶴』を観ていたはずだ。
学生時代に私は、乏しい小遣い銭を工面して、名優といわれていた人の舞台を観てきた。それらが私のこころのなかで今も色褪せることなく生き続けている。驚きであると同時に、幸せを感じる。テレビを見ながら、24歳の私と62歳の私とが座席を隣り合わせているような感じがした。その差38年。私は成熟したのかどうか。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう