清水先生のお宅を訪ねることにしていたので、降ったり止んだりの中を融通寺通りをのぼって行った。昼食を一緒に食べようとおっしゃってくださっていたのだが、私はすぐに辞去するつもりだった。何やかにやとお忙しく、お疲れであろうと思ったからだ。
ところが、奥様がなんと餅を搗いて待っていてくださった。しかも4種類ものタレをつくって、まるで碗子蕎麦のように器を変えて給仕してくださり、ほんとうに恐縮した。つぎつぎと味わって、最後に善哉のように甘い小豆餡にくるんでくださると、その4種類の味の流れにうっとりしてしまった。搗きたてだから、つるつると喉にはいってゆく。
その餅に加えて、会津の伝統的な郷土料理である棒鱈煮と鰊の山椒漬も頂戴した。これらの料理は、今では郷土料理屋さんで年中食べることができるそうだが、昔は海に遠い山国会津の貴重な家庭料理だった。鰊の山椒漬を作るための四角い特別な陶器があるのである。そんなわけだから、両親ともに北海道出身の私たち一家が会津にいたときでも、この料理が我家の食卓にのぼることはなかった。純粋な郷土料理というのはそういうものだろう。
そんなことを思いながら、私は遠慮なく自分でつぎつぎと小皿に取り分けて口に運んだ。
清水先生は私の中学の体育担当だったから、童劇プーポの思い出話もさることながら、中学時代の話が矢鱈滅法おもしろかった。当時の先生達の消息や、同級生の消息もうかがった。30歳前後だった先生は現在78歳。私は62歳。長い時間が経ったわけで、さまざまな消息は悲喜交々。驚くような事実も知らされた。
大笑いしてしまったのは、某先生の酒にまつわる話。生徒の下校時間も過ぎ、先生達も帰路につくころ、某先生はちょいと一杯となるのだった。一杯が二杯、しだいに正体がなくなるころようやく腰をあげる。
さて、某先生の自宅は、中学校の正門右に折れ、ふたたび右、次ぎは左、右、左、右、左・・・と繰り返して行けば自ずと自宅前に到着するのだそうだ。そのように某先生は清水先生に説明した。ところが、ある日のこと、いつものように右、左、右、左と繰り返して行けどもいっこうに家に着かない。そのうち人家がなくなり、どうやら自分は坂道をのぼっているようだと気がついた。ふりむくと遠くに街の灯りがチラチラまたたいている。「レレレ?」某先生は酔いがさめた。なんと自宅とはまったく正反対の方向、滝沢峠にたたずんでいることに気がついたのだ。
「某先生はオレにそう言うんだ。オレは嘘じゃないかと思ったが、右、左、右、左と行くのを、初めの出だしで左、右、左、右と行ったとすると、たしかに滝沢峠に出ないでもない」
「そうです、そうです。某先生の自宅と滝沢峠とは、会津若松市の対角線上で互いに正反対になるわけですから」
「そのとおりだ。対角線の反対なんだ。階段状に折れ曲がって行けば、そうなるんだ」
私は腹をかかえて笑い、先生も奥様も「アハアハ」と声をあげて笑った。
「ところがな、某先生にはまだまだ話があってな、やっぱり酒飲んでいたんだな、川に行き当たっただとさ。面倒だからそのまま川に入って、渡りきろうと思ったんだと。ところが、川の中を歩けども歩けども向こう岸に着かねんだと。なんでだべ、なんでだべと思っているうちに、だんだん酔いがさめてきた。なんと、川を縦に歩いていたんだと」
「ハハハハハ、ハハハハ」
「いくらなんだって、どこかで橋にぶつかるべした。言ってることが、ホントなんだかウソなんだか分かんねんだ。おもしろい先生だったよ、某先生は」
こんな他愛もない昔話を聞きながら、いつまでも笑いころげていた。
ようやく辞去しなければならない時間になって、先生は記念誌を「持てるだけ持っていけ」とバッグに詰めさせた。奥さんが、水煮にした会津姫筍をくださった。
会津若松駅の売店で、棒鱈煮と鰊の山椒漬をみつけて、家人へのおみやげに買った。大町の伊勢屋に寄って、昔から我家の誰もが好物だった「椿餅」も買った。伊勢屋は創業170年の老舗で、胡桃を練りこんだ「ゆべし」が、すなわち「椿餅」である。店の構は少し変わったようだが、所在地は44,5年前と同じ。知っていた店が見当たらなくなっているなかで、変わらぬ所に変わらぬたたずまいを見つけて、懐かしさがわく。
昨日の夕食は、頂戴した会津姫筍をつかって私がつくった。
筍御飯。姫筍と高野豆腐の含め煮(昆布出汁、薄口醤油少々、味醂少々)。姫筍と拍子切りした大根と次郎柿のマヨネーズ和え(大根は薄塩で揉んでおく)。会津棒鱈煮。味噌汁。
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Last updated
Nov 15, 2007 08:47:35 AM
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