|
カテゴリ:カテゴリ未分類
ここ三晩つづけてNHK・BS2でイングマール・ベルイマンの映画を観ている。『夏の夜は三たびほほえむ』『野いちご』『処女の泉』とやって、今晩は『叫びとささやき』が放映される。
私は老人を描いた映画が好きで、たとえばリンゼイ・アンダーソン監督の『八月の鯨』(1987)などは、リリアン・ギッシュ(撮影当時91歳)やベティ・デイヴィス(同79歳)というお気に入り女優が主演ということもあり、忘れられない一作となっている。この嗜好は、自分が老年になったからというわけでは決してなく、若い時から興味深く観てきた。 率直に言って、実際に老人とつきあうとなったら厄介なものである。さまざまなモノが蓄積されているから、そこまで生きてきたという自負心もあって、頑固だし、人の言うことにはさほど感心を示さない。もう充分だという気持があるかもしれない。それが自己愛ともエゴイスムともなる。同時に、じつはまったく逆な面も持ち合わせている。つまり、若者より人間に対する洞察力がすぐれ、いわば酸いも甘いも噛み分けている。率直に表現されなくとも、優しさや涙脆い一面もある。 生命の枯渇を感じてい、ときどき死のささやきを耳にしている。それだけにまた、その自然の摂理に抗うかのように、自分はまだまだ若いのだという思いが鬱勃とする。そのためしばしば年寄りの冷や水と云われるようなことをしでかす。気は若くても肉体は老いているということを忘れたかのように。ギクシャクと操り人形のような姿を、悲しいかな自分では気が付かない。老人には悲哀と滑稽が同居しているのだ。 すぐれた老人映画は、そうしたことをあますとこなく映し出す。私にはそれが面白い。そして、老人を撮ることは、映画作家としての力量がためされることでもある、と私は思っている。それは俳優についても言えることだ。そこに居るだけで、人間存在の悲哀や滑稽を表現するというのは、俳優の人間としての厚みや幅がなくてはどうしようもないであろう。メイキャップで皺を描いてみたところでどうなるものでもない。老人を撮るとき、カメラは最も残酷な道具になる。 さて、長い前置をしたが、『野いちご』はまことに優れた老人映画である。そして、その老人の内面を映像化した、映画というメディアでなければ出来ないような語り口に注目しなければならない。しかも、私はその語法が、老人の生理そのもののアレゴリー(寓意)となっているように思う。老人はしばしば夢と現実、空想と現実、過去と現在とを混同するものだ。そうしたことがそのままこの映画の語法になっている。それでいて映画はいささかの混乱もない。小説でも絵画でも舞台劇でも絶対にできない、映画だけの語法がここにはある。 というわけで、その語法について記述するためには、ストーリーを述べなければならない。 一人称で語られるストーリーは単純だ。 医者として、また高度な医療器具の開発者として、功なり名を遂げた76歳の〈私〉イサーク・ボルグは、まさにその人生の締めくくりのように、今日、名誉博士の称号の授与式に臨むことになっていた。 〈私〉はその朝、目覚めの直前に奇妙な夢を見る。人っこ一人いない街の石畳の鋪道を歩いていた。街頭の大時計に針がないので、自分の懐中時計を出してみると、それにも針がない。白昼の強い光と黒く深い陰。〈私〉は後戻りするが、ふと振向くと、遠くに黒い外套を着て黒い中折帽をかぶった男が後ろ向きに立っている。その男に近づき、彼の顔を覗くと、それは奇妙な干涸らびた顔で、一瞬にしてガラガラと路上に崩れ落ちた。角を曲って霊柩馬車がやってくる。馭者がいない。馬車は鋪道の石柱にひっかかり、馬はあばれだし柩を路上に落して駆け去る。〈私〉は柩を覗き込んだ。すると柩から腕がのびる。そして、〈私〉の腕をつかんで引っぱった。その途端、柩の蓋が開き、遺体の顔が見えた。〈私〉自身の顔だった。 ・・・こうして朝を迎えたイサークは、式典が開催されるルンドへ向けて自動車の旅に出る。 ところでこの夢のシーンを見て、私は昔気がつかなかった別の映画のシーンとの親近性を感じた。それはアンチ・ロマンの旗手と称されたアラン・ロブ=グリエの『去年マリエンバードで』である。私はこの映画を大学生の頃に観て、それ以後一度も観ていないので詳しい比較はできないけれども、映像が感覚的にとても似ているのだ。『去年マリエンバードで』は登場人物に影がない映像で有名になった。その白々した光が一様にあふれる無人の庭園の光景を、『野いちご』の冒頭の夢のシーンを見ていて思い出した。断言することはできないが、『去年マリエンバードで』は、『野いちご』の冒頭の夢のシーンから影響を受けているのではあるまいか。 ・・・〈私〉は、なにか不快な気分をかかえながら、車のハンドルを握った。息子エヴァルドの妻マリアンヌが同乗した。息子夫婦の間はうまくいっていないらしいが、〈私〉には関わりがないことだ。〈私〉の妻カリンは遠の昔に亡くなった。96歳の老いた母が生きているが、かつて彼女は妻を憎み、他人にも自分にも厳しく、親族は誰も寄り付かない。〈私〉も母に似ているのか。人は〈私〉を冷たいエゴイストと言う。医学への50年にわたる献身の果てに、自分の人生を惨めなものと思い知らねばならないのか・・・。 ふと思いたって〈私〉は、青年時代を過した屋敷に立ち寄ってみることにした。庭の草むらの野いちごが、たちまち若かった時代をよみがえらせる。 以下の回想シーンは興味深い映像技法をもちいている。イサークは野いちごの草むらに横たわり、まるで覗き見するように(あるいは、まるで幽霊のように)過去の光景を見つめるのである。 ・・・〈私〉の婚約者サーラが野いちごを摘んでいる。若く可憐なサーラ。そこへ〈私〉の弟がやってきて、大胆にもサーラに挑みかかった。〈私〉は弟に婚約者を奪われてしまったのだ。今、老いた〈私〉の目の前に繰り広げられる光景を見つめながら、〈私〉の心はいまだに傷ついたままだ。 ここで男二人に女一人という無銭旅行の若者を同乗させた。彼等は友人同士なのだが、一人の男と女とは婚約していて、もう一人の男はお目付役なのだという。天衣無縫な若者を見ながら、〈私〉はいまさらながら自分の青春を無為に過したと悔んだ。 と、すれ違う車に危うく衝突しそうになってハンドルを切る。が、相手の車は転覆してしまった。乗っていた夫婦を同乗させる。この二人はあたりはばからず口論し、互を罵りあい、軽蔑し、叩きあうしまつ。まったく惨めな夫婦だった。嫁のマリアンヌは、思いあまって、「若いひとたちに悪影響だから」と夫婦を下車させてしまう。 〈私〉は回り道をして老母を訪ねた。頑な母には、死さえも寄り付かないかのようだ。 再び車中。マリアンヌに運転をまかせて〈私〉はまどろむ。・・・暗い森のなかで、〈私〉は、妻カリンが愛人と密会しているのを見る。昔のままに再現される光景。そうだ、〈私〉は、昔、その光景をたしかに目撃した。そして妻の告白。・・・それ以来、〈私〉は生きた屍となっていたのだ。いま、この年になって、それに気がつく。 〈私〉は、いままで自分には関わりないと聞くことを拒否してきたマリアンヌの話に耳を傾ける。息子エヴァルトも死をのぞんでいるのだということを。愛のない両親のもとで育った息子には、生命を連続させる意志に欠けるのかもしれない。 車はルンドに到着した。 荘重華麗な式典がおこなわれた。無銭旅行の若者たちは〈私〉を祝福して去ってゆく。すばらしい若者たち。 エヴァルトの家でくつろぐ〈私〉の心は、いつになく温かい感情につつまれている。ベッドに横たわると、〈私〉はまたしても夢の世界に入ってゆく・・・野いちごの森からサーラが現れ、〈私〉を入江に連れてゆく。父が釣り糸をたれている。そのそばで母が本をひらいている・・・ ・・・このようにストーリーを述べるだけで、この映画の語法がいかなるものか、いかに優れているかが分かる。 イングマール・ベルイマンの映像について、これまでどのように理解されてきたのであろう。 たとえば、淀川長治氏は『映画千夜一夜』で次のように言っている。語っている相手は蓮見重彦氏と山田宏一氏である。 山田「(略)そんな霊感のような感覚を最もうまくイメージに表現した映画作家で、いまふっと思い浮かべたのはイングマール・ベルイマンですね。(略)『ファニーとアレクサンデル』でも、子供が部屋のなかでフッと見ると、死神が片隅の家具と植木のあいだをスーッと横切ったりするとか。」 淀川「何かありますね、あの人の感覚には。『野いちご』なんかでは、夢のなかで、時計の針がないとかね。あれ、何でしょうね、やっぱりデンマークとかスウェーデンとか、北欧の感覚でしょうかしら。」 蓮見「それはあるかもしれませんね。」 先に述べたように、『野いちご』は、夢と現実、空想と現実、過去と現在とが、何の切れ目もなく、時空間を同一にして映像化されている。私は、これはまさに老人の生理そのものと理解する。すくなくとも『野いちご』は、感覚的であると同時にきわめて知的な計算がいきとどいている。そして、一人称にもかかわらず、その語り手を客観化する巧妙な仕掛けとなっている。一人称形式というのは概して身勝手で我が儘な妄想になりがちだ。たとえば、夢の話が他人を飽き飽きさせることを思えばお分かりになろう。語っている本人は自らの潜在意識と葛藤しているので口角泡をとばして話すのだが、第三者には馬鹿らしくてほとんど興味がもてないものである。『野いちご』の映画語法は、そうした一人称のおちいりやすい退屈さから、完全に抜け出ている。〈私〉が〈私〉自身の過去に出会おうと、幽霊のようにたたずんで覗き見ようと、・・・それをドペルゲンガーと言おうと幻視と言おうと、そこに観客を証人に仕立てた客観性が成立してしまうのだ。映像だから成立するのだ。絵画では成立しない。文学でも成立しないのである。 なんと上手い方法を思いついたものだ!、と私はひとしきり感嘆した。 ついでに述べると、〈私〉イサーク・ボルグ医師を演じているのはヴィクトール・シェーストレームで、この人はサイレント時代の映画作家。ラーゲルレーフの『死神の御者』を原作とする『霊魂の不滅』(1921)を撮っている。私は見ていないのだが、この映画、死神が馬車で迎えにくるシーンがあるのだそうだ。『野いちご』冒頭の〈私〉の夢のなかの、御者のいない霊柩馬車のイメージは、おそらく〈私〉を演じるヴィクトール・シェーストレームへのベルイマン監督のオマージュでもあろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 25, 2018 05:14:54 AM
コメント(0) | コメントを書く |
|