先日亡くなった市川崑監督を追悼してその作品を連続放映するNHK・BSの番組が始まった。第一夜のきょうは、『ビルマの竪琴』であった。製作されたのは昭和31年(1956)だから、私はビデオ版もDVD版も所持していないので、じつに52年、いや、たぶん51年ぶりに再び見たことになる。
つまり私が12歳のときに観ているわけで、当時、私はすでに親許を離れて会津若松の学生寮に入り、第三中学校に通学していた。ただしこの映画を観たのは八総鉱山小学校の講堂兼体育館兼映画館であるから、母が上映プログラムを手紙で知らせてくれたにちがいない。土曜日、私は学校が終るとすぐに西若松駅から汽車に飛び乗って帰宅、その晩に家族そろって映画を観て一泊、翌日曜日の夕方5時頃に会津若松に帰ったはずだ。
私の映画好きは、言わず語らずのうちに母は察していて、私が興味をもちそうな作品が上映されるときは手紙で知らせてきたのだった。もっとも、経済的に余裕があったわけではないので、帰宅するとしても月に一度、ないし三月に一度くらいだったけれど。
さて、そのようにして観た『ビルマの竪琴』だが、忘れていないものだなぁと、あらためて映像の力に感じいった。すべてのシーンを記憶していたとは言えないが、それでも大筋にそってまったく色褪せずに記憶していた。冒頭と最後とに二度字幕で出る、「ビルマの土はあかい。岩もあかい」という言葉はすっかり忘れていた。また、部隊の兵士たちによって繰り返される合唱曲のうち、『もずが枯木で』を歌っていたこともすっかり忘れていた。この曲は、日露戦争に出兵した兄さんのことを思い出している留守家族の歌である。「兄さは満州へ行っただよ。鉄砲が涙で光ってた。兄さの薪割る音がねぇ。バッサリ薪割る音がねぇ。」と。なるほど、停戦となり英軍の収容所に入れられた日本の兵士たちがうたうにふさわしい曲であった。
そのほかの場面は、完璧に覚えていた。北林谷栄が扮する奇妙な関西弁をあやつるビルマ人の物売り婆さんが始めて登場するところも、停戦後に三角山に立てこもって抵抗する日本兵を、井上隊長の命を受けて水島上等兵が説得におもむくシーン、三角山のシーン、ビルマの山河に散らばる無数の日本兵の屍体。それらの屍体に水島が顔をおおって走り去ろうとする茫漠としたイラワジ河岸のシーン。作業から帰る部隊と橋の上で遭遇する、今はビルマ僧の姿となった水島。その肩にとまるインコ。・・・私は12歳に還ってしまったようだ。八総鉱山小学校の講堂で、家から持っていった座布団にすわりながら・・・。懐かしさで胸がつまる。
俳優たちの顔がみないい。それはそうだろう、実際に戦争を経験した人たちも大勢いるのだから。西村晃氏は、たしか特攻隊の生き残りだったはず。浜村純氏のような顔の俳優は、現在ではもういないだろう。三角山立てこもり部隊の隊長に扮していた三橋達也氏の、信条にとりつかれた目の光のすばらしさ。三国連太郎氏は井上部隊長に扮し、音楽学校出という経歴のそのインテリ学士らしさをそこはかとなく滲ませるうまさ。
いやー、この頃の日本映画はおとなの映画だったなー。
それにしても惜しむらくは、劣化したフィルムのままDVD化されていることだ。欧米の昔の映画は、きっちりデジタル修整してDVD化されている。フィルムはフィルムできちんと保存することがのぞましいが、DVD化して発売するものは、それなりの金をかけて補正するほどの気位はないものかね、関係者のみなさんよ。文化、文化と、ごたくばかり並べてもしょうがないんだけどなー。
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Last updated
Mar 11, 2008 09:37:41 AM
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