あいにく星も月も見えないけれど、今夜は七夕祭である。いつの頃からかは不明だが、この祭は商店街や観光客ねらいを兼ね、私の町でも7月になるまえから通りや商店の入口に笹竹の飾りなどが立てられているのを見かけた。しかし古くは、「七夕」と書くとおり、七日の夕べに始められ、翌朝には江戸城大奥の祝儀の供物は品川台場附近へ遺棄したのだという。
平安の王朝時代はずいぶん手の込んだ儀式だったようだが、江戸時代になると五節句のひとつとして一般化した。それでも、江戸城内でも諸大名の行事と大奥とでは内容が異なり、諸大名は殿中出仕の装いは白帷子長裃(しろかたびらながかみしも)、祝儀を上申した。一方、大奥では、御台所は瓜や西瓜や桃や菓子などを白木の台に山のように盛り、その四隅に笹竹を立てて注連縄をめぐらし、灯明を供えた。そして星合せの歌をただ一首のみ短冊にしたためて御休息の間にそなえた。女中たちも銘々に歌をしたためた短冊を笹竹に結んだ。彼女たちは彼女たちで、御台所とは別の祭りをしたのである。余興があるわけでもない、静かな星の祭りだった。
武家の場合はまた異なり、机のうえに五色の糸巻を供え、その四方に机を立てて色とりどりの総模様の小袖を幾枚も重ねかけて飾った。
一般庶民は町のいたるところに笹竹を立て、思い思いの詩歌を五色の紙に書いて竹の葉陰に結び付けた。『絵本寝覚種(えほんねざめぐさ)』に庶民の七夕飾りの様子をうかがえる挿画が入っているが、短冊や小さな紙提灯が竹に結びつけられている。酸漿(ほおずき)などもつるした。さらに、帳面や筆、硯、算盤なども結び付けた。女子は恋の願いを歌に書き、願いの糸を掛けた。おまじないである。この糸が竹の葉末から中空に流れ舞い上がり、恋の成就を願ったのである。
以上のことは小野武雄編著『江戸の歳事風俗誌』および平出鏗二郎著『東京風俗志』、河鰭実英著『有職故実』等に出ている。
このような七夕風俗がすたれたのは、明治6年1月に五節句を廃したからである。七百年八百年とつづいた年中行事のひとつが、時の政府が祝儀としてはやらぬと決したことによって、たちまち亡んでしまった。文化の衰退ということを考えるとき、興味深い実例である。さしずめ現代なら、「改革」をぶちあげたとたんに、社会の橋桁が崩れたようなものだろう。
ただし明治政府がやった五節句廃止とは、国の重責をになう指導者たちが官庁あげて、季節行事に国家予算をつぎこんで威儀を正してどうにかなるものでもないという見きわめであろう。五節句とは、正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)をさす。
そうそう、江戸時代には、七夕祭に冷や麦、冷や素麺を食べたそうである。我家の昼食は、冷やし中華だった。なにしろ文化無国籍家庭でして。
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