赤塚不二夫氏が亡くなられた。お目にかかったことはなかったが、知人が同じだったので、その人を介してお身体がお悪いことは聞いていた。
数年前、講談社フェーマス・アーチスツ・スクールズの創立40周年のおり、記念のパンフレットに寄稿を依頼された。刊行されたパンフレットがとどき、ぺージを繰ると、赤塚氏も寄稿されていた。しかしそれは赤塚プロダクションの方が代筆されたもので、そこに氏の闘病について記されていた。
さきに述べた知人というのは、じつは同スクールの初代トップの丸山昭氏である。私は第一期生として、一時、同スクールに学び、また赤塚氏もすでに売れっ子マンガ家だったが同スクールに受講生として在籍していたのであった。のみならず、丸山氏はかつて講談社の『りぼん』編集長だったので、同誌に「ひみつのアッコちゃん」を連載していた赤塚氏とは因縁浅からぬ御縁があった。
私は、まだスクールとしての機構が確立しない時代の一期生ということで、トップの丸山氏と親しくお話をうかがったり酒の杯をかわしたりさせていただいていた。私は途中でプロフェッショナル・イラストレーターとしてデビューして、同スクールを退学してしまったので、その後はめったにお目にかかる機会はなくなった。
丸山氏が近年手塚治虫賞特別功労賞を受賞されたとき、私はしばらくぶりに連絡して御祝辞を申しあげた。そして翌年のこと、さるパーティで御会いした。そのとき赤塚不二夫氏の闘病についてあらためてお話を聞くことができたのだった。意識がないということだった。丸山氏はご家族等と緊密な連絡をとっているようだったが、口を濁す部分に逆に病状の深刻さがうかがえたのだった。そう、それが3年前の7月の初めであった。
私はマンガやマンガ・アニメーションはほとんど関心外のこととしていたが、不思議なことに、赤塚氏の「おそ松くん」は雑誌で見て楽しみ、TV版「天才バカボン」を末弟のうしろから見ていたのである。特に意識していたのではないのだが、それがほとんど唯一といってよいことだったので、いま思い出して自分ながら不思議である。
赤塚不二夫氏の御冥福をお祈りします。
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Last updated
Aug 4, 2008 12:02:35 AM
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