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カテゴリ:美術・絵画・イラストレーション・写真
一昨日見てきた実践女子大学の源氏物語展は、同大学所蔵の32品の展示であるから規模は小さいのであるが、展示品のなかに私が特に関心をもったものが1点あった。そのことをメモとして書いておく。
『白描源氏物語絵巻』全3巻。 紙本墨画。江戸初期 実践女子大学美学美術史学科蔵。 一巻:「桐壺」~「澪標」20紙 縦14.0cm 全長760.9cm 二巻:「蓬生」~「夕霧」21紙 縦14.0cm 全長824.3cm 三巻:「御法」~「手習一」18紙 縦14.0cm 全長671.4cm 白描というのは墨筆のみで描いた絵で、彩色はまったくされていないものを言う。一般によく知られたものでは伝鳥羽僧正筆『鳥獣人物戯画絵巻』(国宝・高山寺蔵全4巻、および東京国立博物館と個人蔵断簡)がある。 実践女子大所蔵の本品は、長さはともかく、縦14.0cmという絵巻物としては非常に小さなもので、しかし細密でゆるぎない見事な描線で描かれている。この絵巻の研究はなぜかほとんどなされていないようで、本展覧会のために大学が製作した図録においても、問題点・疑問点が列挙されているにすぎない。それらを書き出してみれば、次のとおり。 1)本作は『源氏物語』の各帖ごとに幾つかの場面を白描画であらわし、詞書や注釈をそえたもの。 2)現状は3巻からなる巻子装であるが、本紙の折目、虫食い、シミなどの痕跡から一時期は折本形式の画冊(一冊か)であったと推測される。 3)ただし、各紙ごとに振られた整理番号には、折本・巻子の体裁に不規則な箇所がいくつかある。初期形態から現状にいたるまでの経過は、今後の検討を要する。 4)本作の絵画場面は、山本春正著『絵入源氏物語』(承応3年;1650年刊)に収載の挿画と同一の場面選択・場面数である。各絵の構図および人物描写もほぼ一致している。両作の相互関係や如何。 5)上記承応本と比較して、描写力の正確さ等から、本作画には大和絵系の専門絵師の関与が想定できる。 6)添書文は『絵入源氏物語』や『満月抄』等と関係が深い。ただし添書と作画の時期が同じであるとの判断をする確証はない。 7)絵のみに注目するなら、絵師が本制作の際に参考にする下書の手控帖、あるいは図様集の類いを思わせるが、添書には物語本文や注釈書の抜粋を記していることから、一概に断定はできない。 8)本作の用途や性格を理解するには、絵と添書を追究することが必要不可欠である。 以上、箇条書きに直したが、図録に記載されてある内容である。 さて、この作品を下書そのもの、すなわち絵師のデッサンとみなすことは無理があるかもしれない。実際、ここに描かれた人物像は丈3cmにも満たない。それでいて目鼻立ちもしっかり、衣紋付も正確。殿舎の描写も規矩正しく、素人の手慰みなどではありようがないのは無論のこと、細筆による描線が太い細いと乱れることなく均一に保たれ、しかも力強いことは、絵師として並々ならぬ技量を証しているといってよい。つまりこのことは、絵師はすでに模索を終了していることを示している。デッサンを経て、決定的な構図がここに定着していると見ることができる。 では、本作はこれで完成したのであろうか。 私はそうとは思わないのだ。ここから本制作に入るところだったのではあるまいか。ということは、私は本作を絵師の下書手控と考えているわけであるが、しかもその本制作は大和絵風の着彩画となるはずのものである。本作品に物語本文が書き込まれているのは、本制作でもその部分に詞書を入れるためではないだろうか。あるいは、注釈書抜粋と考えあわせると、本制作において(特に彩色において)より一層の描写の徹底をするための絵師の覚書なのではあるまいか。 私はイラストレーターとして、実作者として、そのような覚書をつくることをやっているからである。そのようなノート・ブックをつくっているのだ。それによって描写のための資料収集を充実させ、あるいは実物のモデルを用意する。また下絵に、色名をメモとして書き込んでおくこともする。それよりもなによりも、本制作の前にサムネールと云って、小さな小さな見本絵をつくることをするのである。サムネールとは親指の爪という意味だが、小画面の下書をさす専門用語である。それはまだ海のものとも山のものとも定まらない空白の状態から、アイデアを模索してゆくために、時にイタズラ書きのように小さな絵をたくさん描いてゆく、それをサムネールをつくるというのである。 大学側の図録解説のように、本作の用途や性格を決定するためには、学問的には文献渉猟が必要であろうが、実は文献からはあらわれてこない「事態」もあるのである。それが文献研究に偏ると見過ごされがちなのは、研究者と称する人たちがほとんどの場合、実作者ではないからである。たとえば文芸作品のなかに画家が登場すると、あれあれというような間違いを発見することがある。それに似ている。たとえば、かつてこのブログで書いたことがあるはずだが、油絵具の乾燥速度が、色(物質)によってまちまちであり、1日で指でふれても大丈夫なほど乾燥(指触乾燥)する色もあれば、10日以上も乾燥しない色もある。そういう異なった乾燥速度の色をならべて描くときには、それ相応の技術的な処理がひつようになってくる。・・・そのようなことは、実作者以外にはあまり分らないものだ(分らないかもしれない)。(後注) 私はこの実践女子大学所蔵の『白描源氏物語絵巻』全3巻によって、じつは初めて白描の源氏物語絵の存在を知ったのだが、その興味とともに、もし本作が絵師の本制作のための下絵手控だとしたら、そのようなものこそ初めて見るものなので、非常に興味深く見たのである。絵巻物とごく普通に云うけれども、それが実際どのようなシステムで、どのような過程で制作されていたかは、一般にはおそらく知られていないのではあるまいか。 興味のあるかたは是非ご一見ください。 『みやびへの憧れ --源氏物語千年紀記念 実践女子大学所蔵名品展』は11月9日まで同大香雪記念資料館において開催(ただし、10月14,20,27日、11月4日は休館)。無料。JR日野駅下車、徒歩15分。 【注】 実作絵師の視点への踏み込みが足りないのではあるまいかとは、先日のこのブログに書いたエステル・ジョエリー=ボエール博士の論説にも私は思ったことだ。実は、博士が聴講者の質問を受け付けたので、私はひとつ質問したのであった。その質問は、男性主人公の視線の先にある山吹あるいは松などが思慕する女性の象徴となっている、そのような絵画表現が出現してくる、という博士の論説に関するものである。私の質問は次のようだ。 「絵師が象徴表現する場合、それが象徴であることを鑑賞者が察知するためのその絵の享受階層に文化としてそれ相応のコンセンサス(認識の一致)がなければ成立しないはず。とすれば、その象徴認識はすでに当時代のものであったのかどうか。それは『源氏物語』の刊行本の流布状況と関係があったとみるべきかどうか。」 なぜ私がこういう質問をしたかというと、実作者にはすぐ気がつくことなのだが、象徴には二つの場合があって、 一つは神話的象徴のようにすでに社会的な認識が明確に存在する場合、 二つには、時代思潮とともにある事物や現象や言語表現が社会一般に暗示的にはたらき始めている場合、である。 現代的にいうなら、イラストレーターが商業広告や本の挿画を制作する場合、決してひとりよがりの「象徴」など用いることはない。社会的なコンセンサスがなくては絵の訴求力がないからである。イラストレーターがひとりで空回りしていては目的を達成できない。 源氏物語絵がイラストレーションであるかぎり、そしてまた近代以前の絵画制作者の意識としては、現代的芸術家の純粋個人主義とはまったく異なる意識で、社会的なコンセンサスの表現を求めたと考えられるだろう。したがって、ジョエリー=ボエール博士の言うように、源氏物語絵にあらたな象徴表現が出現したというならば、それが象徴と受け止められる文化的認識ができあがっていなければならない。そのコンセンサス形成を示す傍証を、私は尋ねたのであった。 しかし、残念ながら、実作者ではない文献学者の博士には私の質問は思いのほかであったようだ。博士は、「和歌の解釈がすでに高度に存在していたと考えてよいでしょう」と答えられたが、後に、「うまく答えられませんでした」と直接私におっしゃった。 『源氏物語』の印刷による刊本が初めて出たのは、江戸時代にはいってからである。上堂貴族階級の文化から刊本を享受する一般大衆の文化までの距離を、はたして和歌の解釈の流布だけで埋められるかどうか? 私のひっかかりはその点にある。 実は、私は、文献学一辺倒の研究方法はやがて変わってゆくであろうと思っている。しかし、そうだとしても、相当時間を要するであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 7, 2008 12:33:01 AM
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