16~17世紀にかけてのイギリスの詩人ジョン・ダン(John Donne;1572-1631)の詩のなかの一節に、「Death, be not proud(死よ、驕るなかれ)」とある。ダンはイギリス国教会の聖職者であったので、この言葉は宗教的見地から発せられている。
私はこういう考えをむしろ哀れみ、人の死を一般生物の死以外のなにごとでもないと認識する。そこに宗教者との絶対的な違いがある。しかし、私は人間が弱いものであることもよく知っているので、私の考えは私だけのものでよい。そのてんも宗教者との違いであろう。
私は、なぜかしらないが、しばしば臨終の人への接しかたをふくむ心の迷いについての相談をされる。私より年輩のかたが多いので面喰らうが、そういう方々にお話しするのは、御自分の満足ゆくようになさいということである。だから宗教にすがりたいならそれもよし、聖書の言葉に癒されるならそれを読めばよし、なんらかの御経を唱えたいならそれもよし。すべて自分が生きて行くために為すことが、死にゆく者への最大の礼儀となろう、と。
ジョン・ダンが「死よ、驕るなかれ!」と叫ぶのは、誰のためでもない、自分に言い聞かせているのだろう。
死は驕っているのではない。生きとし生けるものが、ひとつの生物的な役目をおわって土になるのである。生命とはそもそも死を内包しているのであり、死を内包していない生命など存在しない。細胞学的には、新生する交替要員をすべて使いはたしたときにその細胞は死ぬのである。死んだ細胞の総体が、もはや生きる人間としての全体をささえきれなくなったとき、人間は死ぬのである。そのプロセスに幻想的に意味をくっつけても、死は死である。
といっても人間は幻想を生きるしかないのも一方の事実。「人生60歳にもなれば、いろいろあるからなー」、まあ、このぐらいの感慨が一番手ごろかもしれない。