このブログのトップに昨日まで私の作品《日蝕》を掲載していたが、来る7月22日には日本で46年振りに見ることができる皆既日蝕がある。
46年前といえば私は高校3年生。のんきな高校生だったけれど、やはり受験勉強が頭を占めていたのか、皆既日蝕のことは記憶にあるような無いような、ぼんやりしている。
この5年前、すなわち1958年には部分日蝕があり、このときのことは明瞭に記憶している。記憶というより、私は自分のカメラを学校にもってゆき、この日のことを撮影しているのだ。
私は中学1年生。前日、理科担任の栗城先生が、ガラス片をローソクの煤で燻して各自用意しておくように指示した。私は親許を離れて暮らしていたので、このような家庭で何かを用意してこいというのは当惑してしまう指示だった。クラスのB君がいつも私のためにいろいろ用意してくれたものだが(私が頼んだのではない。それにB君の家はひどく貧しいらしかったが、中学生の想像力では私は孤児だと思われていたようだ)、たぶんこの日蝕観察のときのガラス片もB君からもらったのだと思う。それはともかく、下の写真がそのときに撮影したもの。
白衣を着ているのが栗城先生。天体望遠鏡の陰にもじゃもじゃ頭だけ少しのぞいているのは、数学担任の川口先生(先生は、後年、不慮の事故で亡くなられたそうだが・・)。
古いアルバムの一頁に残っている、私のいろいろな思い出がつまった写真である。たまたま拙作《日蝕》を掲載していたので、書いてみる気になった。
さて、母は手術の翌日12日の午前11時には早くも集中治療室から一般病棟に移り、数本の点滴の管や酸素呼吸管がとりつけられているものの、13日の昼からはお粥の食事もとるようになった。
ひとつ気がついたことがある。記銘力(新しい経験を覚え込む力)が衰えているので、この数日間に多くの場所を移動して、自分が今現在どこにいるのか分らなくなっているということ。そのため、たった独り、どこかに置き去りにされたという思い(あるいは妄想、あるいはそのような新たな記憶といってもよい)が心に刻まれているかも知れない。今日14日、私は休息し、かわりに弟が母を訪問したのだが、弟の報告によると、母は病室からナース・ステーションに一時的に移され、全面的に監視されていたというのである。それは良い意味での監視なのだが、つまりは母は病室に独りで寝ていることに不安があり、それが看護婦さんの目にも明らかなっていたということだ。
若い患者と異なり、90歳の老人は病室に独りでいると自分で外界の刺激をもとめることが困難になる。そのため脳のはたらきは各段に、あるいは急速に衰えてしまう。病室にテレビがそなえられてはいるが、その操作は必ずしも高齢者に容易なものでもないし、記銘力が衰えているのだから、操作方法を「はいはい」と納得して覚えたつもりでも、すぐに忘れてしまうのだ。すくなくとも母にはテレビも役には立たない。
きょう、私は弟に提案し、ノートブックに3Bの鉛筆を少し長めの紐で結わえつけたものを持って行かせた。ベッドに寝ながら、好きなことを書けばよい。悪戯書きでもいい。書道を長らくたしなんできたので、何か文字を書くことで脳が活動することを期待するのである。
主治医から、手術中に脳硬塞がおこる危険な可能性を言われていた。それを無事にクリアして、命も取り留めた。しかし、命を取り留めたはいいが、脳が衰えてしまっては新たな苦難がはじまるだろう。それを未然に防ぐ脳活性化策を考案しなければなるまい。