さきほどまでTVでマイケル・ジャクソンのラスト・コンサートになった2001年9月にNYマジソン・スクエア・ガーデンでおこなわれたソロ・デヴュー30周年記念コンサートの記録を観ていた(NHK・HV)。すばらしいコンサートで堪能した。
私は70年代から80年代に数多くのダンス・パフォーマンスを観てきた。しかしマイケル・ジャクソンのダンスはまったくのオリジナルであることをあらためて感じた。モダン・ダンスをはじめ、日本の土方巽の暗黒舞踏まで、舞踊家は肉体の運動機能の可能性と限界とを冒険家のように探究してきた。その極北が土方巽であり、その影響下にありながらやがて極微的な時間軸に極微的な皮膚感覚をそわせてオリジナル性を創造した田中泯がいる。あるいは先日亡くなったピナ・バウシュのタンツ・テアターがある。
しかし土方にしろ田中にしろ、幅広い支持層ができ大勢の弟子たちを養成しつつショー・ピースをつくるようになると、私の観るところ、せっかく到達した極北性はしだいに溶解し、だからといってエンターテイメントとして大衆性を獲得したかというと、そうはゆかなかったかもしれない。
マイケル・ジャクソンのダンスはみずからの歌唱に附随したパフォーマンスで、はじめからエンターテイメントとして存在したのであるが、エルビス・プレスリーを別にしていかなるエンターテイナーも発見しえなかった肉体の動きを、みごとに音楽に融合させ、彼の長いステージ歴のなかで進化しているのである。これは驚異といってよいのではあるまいか。彼のダンスとしての肉体の動きは、じつに奇妙奇怪で、ある意味下品で、そして滑稽である。しかしその動きが激しいスピード感にあふれた音楽と一体となったとき、かつて誰も見たことがない〈美しさ〉が表出する。肉体がこんなに自在に機能することに呆気にとられながら、見ている者の内的なこだわりを自由さにむかって解放するような〈楽しさ〉を誘発するのである。誰が冷淡で無関心でいられようか。この楽しい肉体の動き---足さばきとか手の動きとか---を、誰もが真似したくなるのだ。けれども、真似をしてみてはじめて、マイケル・ジャクソンのとてつもなく高度な技術を知ることになる。彼のうしろにエピゴーネン(追随者、真似)は列をつくるけれど、誰も彼の高みには到達できないのだ。そこがすごい。
・・・偉大なエンターテイナーを失ったのだとあらためて私は知った。そしてつくずく、その死とともに消えてしまう〈才能〉を、なんと言ったらよいだろう・・・「おもしろい」、そう、おもしろいと私は思ったのである。そこに人間存在の本質的な孤独がありますものね。
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Last updated
Jul 20, 2009 07:15:17 AM
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