私が絵を描きつづけてきて嬉しく思うのは、見知らぬ人からの御手紙やお葉書に、作品の意図をみごとに感受してくださっている文面に出会う時である。絵描きというものは、・・・いや、少なくとも私は、自作を解説することはほとんどない。どのようなかたちであれ(現物を見せる展覧会のみならず、印刷物にしろインターネットにしろ)、発表してしまった後はもう作者の意図などおかまいなく作品は生き続けるか死んでしまうかだ、と私は思っている。したがって、自作を「このように見てください」などと解説するのは愚の骨頂。現代美術というのは、多かれ少なかれ「言葉」と一体になっているところがあるのだけれど、それでもなお、私は観客に求められても自作を解説するつもりはない。
ないのではあるが、なぜその作品を描いたかという意図はあるので、口から出そうなのもまた、嘘偽りのない気持だ。物欲しげにはしない。だが、発表という行為自体は、理解されたい、してくれよ、ということだ。
さて、今日、私は一通の葉書を受け取った。それは女性からのもので、私の油彩画『黒髪のイヴ』に触れていた。短い文面ながら、「イヴ」という古典的な主題を私がなぜこの現代にとりあげ「アダム」とともにシリーズで描いているかを、その人の感受性は適確に理解していると思えた。むしろ私にはわずか数語でしたためたそのことが驚きだった。
『黒髪のイヴ』のイヴの目については、作曲家の新実徳英氏からも嬉しいお言葉を頂戴していたが、今日の葉書はやはりイヴの表情について、まるで新実氏の言葉に寄り添うかのように、女性の立場から書いている。そこに読み取られたこと、あるいは感じ取られたことこそ、まさに私が自作を「現代絵画」だと言い切る作品の意図なのだった。つまりその女性の言葉には、確実に神話を突き抜けるものがあった。
1970年代から80年、90年代と、国際的な場での現代美術において、「性」のとらえかたは極めて多面的視点をもつようになった。そこには社会の意識改革という視点も含まれたので、性を描くということが、自己の対象としての性を描くというよりは、むしろ、まず自己の性の有り様を確認するという作業が始められたのである。社会の現象としては、たとえば、男の欲望の対象として女性の裸体を描くことを女性の側から激しく拒否するというものだった。そのような女性の強い意志は、さまざな局面で団結して表示された。街頭広告から女性ヌードを排除する等々である。あるいは、これは宗教的な理由が多分にあるのであるが、アドヴァタイジングに関する国際展においてそのような条件が提示された場合もある。
私は、イラストレーションは別にして、絵画においては人間のいる光景にしか興味がない。しかも時代を限定する「文化」的な意匠(ないしは、衣装)を排除するべく考えてきた。つまり、歴史的地域文化的な概念を取り去った裸の人間、もしくはそのような概念の呪縛から解放するための裸体にしか興味がないということ。
しかし、こういう枠組は、じつに苦しいものだ。世界のあらゆる問題を、裸体の人間たちで表現しようというのであるから。
なぜ、そんなバカげた枷をかけるのか? 答は簡単。「普遍」にしか興味がないから。
というわけで、私の「新アダムとイヴ」のシリーズは、100人が100人に意図を理解されるとは思っていないし、・・・これもバカげたことかもしれないが、自作のなかから極力「情緒性(気分、ムード)」を排除しようと考えているので、私の作品はいわば包容力に欠けるかもしれない。だから、見ず知らずの方から意図を見すかされたような葉書にびっくりし、嬉しくもあった。
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Last updated
Jan 18, 2010 10:26:13 PM
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