きのうの日記で夢のなかでさまよう街について書いた。そしてあらためて気がついたのだが、たぶん50歳前後くらいから、地理的な夢が非常に多くなった。どことも知れないところや、きのう述べたように夢の中で何度も何度も訪れている街を、さまよい歩いているのである。どうしてだろう?
たとえば、これもしばしば訪れるところなのだが、非常に高い高架線路の下に町並みがひろがり、高架線路の一方の端が駅になっている。私はそこから高速の列車に乗るか、あるいはどこからかやって来て、ふいにその駅で降ろされる。降ろされると私の混乱が始まるのだ。行くべき通路に出られない。改札口が二重三重になっているかと思うと、とんでもない裏口に出て来て、表口への道がわからなくなってしまう。・・・いま、こうして書いていると、すでに私の頭のなかにはその景色が思い出せるのである。つまり、何度も何度も同じ夢を見、その景色は記憶に焼き付いてしまっているのだ。
夢判断ふうに解釈すれば、この夢からいともたやすく私の心のうちを解き明かすことができる。
しかし、私をふと不安にするのは、そんな解釈ではない。夢から醒めると、そこが何処だか分からなくなってしまうのに、私は確かに「其処」を知っているのだ、ということだ。駅の路線図や地図のなかから、ひとつだけ駅名が消えていたり、どうしても行き着くことができない地名が書かれていたり・・・だが、私は、かつて「其処」に行ったことがるのだという確信。それが私を不安にする。
行き違う列車の窓明かり・・・ひとり途方にくれてたたずむプラットホーム・・・プラットホームへ降りて行く階段・・・ふとすれ違う人の顔・・・間違えた番線・・・駅裏のロータリー・・・酒場がひしめく怪しげな通り・・・工事中の通り・・・
50歳を過ぎたころから、私はたったひとりで、夢の中の街をさまよい歩いている。
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Last updated
Jul 12, 2011 08:11:05 AM
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