東京は連日の猛暑。茹だるような暑さのなかで、熱中症対策のために水を飲み、無糖のコーヒーを飲んでいる。
昨年までは、寝たきりの老母の熱中症対策に背中の下に電動の空調布団を入れ、原発爆発以後の計画停電のために用意した蓄電式の送風機を足許に置き、こまめな水分補給はもちろん、心音や肺音を聴診器で聞き、体温を計測して記録するなど、とにかく注意を怠らなかったものだ。おかげで主治医は連日のように他の患者の緊急出動に走りまわっていたが、老母は一度もそのような事態にならずにすんだ。我が家が探し出し準備する諸機器を見て、他の患者にも勧めていたようだ。
母が亡くなったいまでは、真夏のそんな日常が遠い夢のようだ。不思議なもので、4年間の苦労を思い出しもしない。そんなことがあったな、という程度である。人間というのは、何事も乗り越えられるのだ。
昔、三島由紀夫が自決する直前に自分の生涯を回顧する展覧会を開いた。「あれ? 奇妙だぞ」と私は思ったのだが、そのことについては今話すのはよそう。展覧会のパンフレットのなかで、小説を書きつづける日常について、その苦しい記憶を保ちつづけていたら狂気になってしまっただろうが、人間は苦しかったことを忘れてしまうものだ、というような意味のことを書いていた。
三島由紀夫は、いまから思えば若くして愚かしい死に方をしたのだが、年を重ねてみるとまさに人生は「喉元すぎれば熱さを忘れる」ようなところがある。私にもそれが分かるようになった。私は映画を見るように昔のことを記憶している人間だが、じつは普段は何事によらず過去のことなど、てんで思い出しはしないのだ。
私の絵は、みかけによらず私個人の記憶が源泉にある。しかし描く衝動が起ったときには、その記憶はすっかりこなれてしまっていて、形さへちがったものになっている。もともとは苦しい記憶でも、描くころには描いていて楽しいものに変っている。
いま、学校内での残酷ないじめが報道され、また親による我が子への殺人にさへいたる虐待がひきもきらない。いじめられている人は、その理不尽な仕打ちに逃げ場を失うのだから、他人が想像を絶する辛く苦しいことだ。子供だから、キャパシティが小さいので心身がその苦痛でいっぱいになってしまうだろう。大人とはちがうのだ。生活の幅はごく狭いのだから。
私は、いじめられたことが無いのだが(あれはいじめだったと、思い返せば気がつく程度)、しかし、まったくなかったわけではない。
小学2年生のときだった。中学生が私の右手の指のあいだに鉛筆を挟み、万力のように締め上げた。子供の頃の私は痩せてひょろひょろしていたので、いじめがいがあったのかもしれない。体格のよい中学生には抵抗しようもなかった。
いや、そうではない。私はその点ちょっと変った子だったかもしれない。泣きもせずに、「やるならやりなさい。指を折りたいなら折りなさい。自分がどんなことをしているか、分からないのなら、分かるまでやりなさい」と心に思いながら(子供なのに本当にそんなふうに思ったのです)、中学生の顔を平然とみつめていた。指は変色し、骨折寸前だったろう。すると中学生の顔がみるみる青ざめて、恐怖の表情になった。そうして脱兎のごとく逃げて行った。私をいじめる者はもう誰もいなかった。・・・私は、しかしその中学生の顔をすっかり記憶してしまい、いまこうして回想していると、はっきり面影が甦ってくる。
私には、どこでどのように精神化されたのか分からないが、天性の楽天性の基盤に捨て身の凶暴さがある。だから私は、自分の経験を他の事例に適用するつもりはまったくない。しかし、精神の幅をひろげると、視点は遠いところに移ってゆくものだとは言える。
問題は、子供たちに、そこをどのように教えるかということだ。学校の先生にはちょっと期待できそうもない。学校の先生にはまず自分自身を教育してもらわなければ。
この社会は一朝一夕には良い方向に変化しはしない。しかし、苦しいことは、やがて忘れる。人生を長くやっていれば、ね。
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