文部科学副大臣・桜田義孝氏が、福島第一原発事故で放射能に汚染されたゴミを焼いた焼却灰の処理をめぐって、「原発事故で人の住めなくなった福島に置けばいい」と発言し、問題になっている。
菅官房長官が桜田氏を注意したと報道されているが、進退については「まったく考えていない」という。あきれると言うより、あいもかわらぬ日本の政治家の恥知らずな言動(経済産業省のキャリア官僚が個人のブログで「(被災地の)復興は不要」、高齢者に対し「早く死ねよ」などと発言したことと共通の意識レベル)に、発言の非を論理的に正すさへ徒労、この国のデカダンスを感じてしまう。
当の桜田氏は、くだんの発言を認めつつ、氏自身がそのように考えているのではなく「そういう意見を言う人もある」と、詭弁を弄している。政治家たるもの、人の意見を代弁する必要はあるまい。いや、代弁すべきではあるまい。その無責任さが、要するに、物事を深く掘り下げて考える人ではない、己の言動によって人格を涵養してきた人ではないことの証明。とにかく言葉が軽く、空虚。想うに、桜田氏は、発言の席において、大人(たいじん)ぶったイイ気さで放言したのだろう。
昨夜の大河ドラマ「八重の桜」のなかで、同志社英学校を退学してゆこうとする徳富猪一郎(蘇峰)の求めに応じて、校長・新島襄が与えた言葉が思い出される。曰く、「大人たらんとせば、自らを大人と思うことなかれ」。
日本の政治家の心根の貧しさ卑しさを思うにつけても、アメリカ合衆国からの次の報道を思いあわせて、彼の国はやはり「腐っても鯛」か、と。
アメリカ合衆国は現在、政府機関閉鎖という異常事態にある。いつ打開するかもわからないようだ。そのなかで、半数を上回る国会議員が、国への給料の返済を申し出ているという。国会議員としてなすべき国会審議をしていないのだから、という理屈である。
この清潔感! ・・・いや、純粋に清潔感から出ているのではないかもしれない。勘ぐれば、選挙民に対する政治家としての保身術なのかもしれない。だが、ここで私が指摘したいのは、国会議員たちが個人の思惑はそれぞれちがっても、揃いも揃って、政府機関が閉鎖されて数日のうちに給料返済を申し出たこと。そういう言わば「筋目」が、アメリカ合衆国国民にとってコンセンサス(社会の一致した考え)となっているという点だ。日本の社会と比較すると、その点におおきな違いを私は見いだす。
日本の社会は、政治家がリーダーシップを発揮しているのではなく、一般大衆が事実上のコントロールをしている国だとは、しばしば言われる。それが妥当であるか否かは措いても、無知で恥知らず、そのうえ傲慢な政治家の軽薄な言動を、国民が野放しにしておくような国だということは間違いない。現代政治というも愚か、近代以前の政治意識を寸分も出てはいないのだ。
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