〈猫は本当に「ツンデレ」? 飼い主との関係、東大が実証〉と、20日の朝日新聞デジタルが書いている。
「ツンデレ」という言葉が私にはわからなかったので、読んでみた。つまりは猫は飼い主やその他の人間にたいして「つれない」という、これまで言われてきたことが、東大の研究によっても、まあ、そうであろうと実証されたというのだ。もうすこし詳しく述べると、東京大学の斎藤慈子講師(比較認知科学)のチームが、一般家庭の飼い猫20匹を対象に、猫が(1)人間の呼び声にどう反応するか(2)飼い主と他人の声を区別しているか―8ヶ月かけて調べ、その認知能力と対人関係について得た結論をヨーロッパの専門誌に発表するという。
斎藤先生にはまことに申し訳ないが、試料が20匹では如何にも少ない。統計的見地からいっても妥当な数字とはとても思えない。
のみならず、30年以上にわたり最初の飼い猫から生まれ、世代を継いで、全部で19匹。多い時には一度に10匹、現在も1998年生まれ2匹と1999年生まれ3匹と暮らしている私は、「ツンデレ」とやらなど思いもよらない。それは19匹すべてに言える。
我家の猫はみな、それぞれの名前、つまり自分の名前を認識している。たとえば、リコに向かってサチと呼んでも素知らぬ顔。リコを怒るとリコは身を隠すが、他の猫は我関せずである。もちろん大声を出したり、こちらの形相激しければ、みな一斉に逃げはするけれど。
飼い主以外の他人の呼びかけを識別できるか否かについても、設問自体が粗雑としか思えない。
他人が名前を呼んでも自分の名前を認識していないからではなく、他人に応える「義務」など感じていないからだ。なにゆえ他人ごときに名前を呼び捨てされなければならないんだ、というわけである。認識していないのではなく、いわば「毅然として」いるのだ。
それでは飼い主に対する行動と他人に対する行動とに歴然とした違いはあるだろうか。
我家の猫達は、玄関内に客が入ろうものなら、さっと二階に上がってしまう。二階に隠れない場合は、その客がしょっちゅう訪れていて、しかも猫好きな人だ。亡母の看護師(スケジュールによって男性と女性が交互に来訪した)の場合がそうだった。初めのうちは身を隠していたが、いつのまにか母のベッドのそばの箪笥の上にのぼり、看護師の仕事をじっと見るようになった。その後、箪笥から下りて、看護師の脚に頭をすりつけるようになった。
これは非常にめずらしいことで、たとえば猫好きを自称しても猫のほうが寄り付かない人がいるからだ。
猫に対して内心に恐怖心を抱いている弟の嫁には、何十年経とうと寄り付くことはない。また、子供に寄り付くこともない。それは子供が突然激しい動き、ぱっと立ったり、駆け出したり、あるいは甲高い大声を発したりするからのようだ。我家の猫達は静かな大人だけのなかで育ったためだろう。
それに、我家の猫達は、実によく話しかけてくる。忙しいときなどは、「うるさいよ!」と注意するほどだ。こちらが無視をきめこんでいると、右手で私の頬に触れてくる。撫でてくれと催促する。御飯はまだかと言う。「待ってなさい、いまあげるよ」と言えば、おとなしく待っている。おしっこやウンチがしたいのに、トイレの砂が取り替えてない、と鳴いて促す。高いところに上って鳴くので、「おいでおいで、ポンしておいで」と指で下りるところを示せば、ちゃんと下りる。膝を指差して「だっこ、だっこ」と言えば、いそいで飛び乗ってくる。注意されるとスネもする。小屋根にのぼって下りられないでいるので、下から両腕を伸ばして「おいで、だいじょうぶだよ」と言うと、まるで人間の赤ん坊のように二本脚で立上がり両手をのばしてくるのはミミだった。
すべての猫たちのご先祖様のクロ(雌猫)は、私は「天才クロ」と言っていたけれど、およそ私の言葉で理解しえないことはなかったのではないかと思っている。
大病して医者に見放されたのを、私は安楽死を拒否し、病院から医療器具を借り、つきっきりで自宅看護すること1ヶ月有余、みごとに回復したことがあった。高熱のため左目は溶けてしまったが、それ以後だった、私の言葉をすべて理解していると思ったのは。どうも私に対して感謝の念をいだいているようだった。あるいは逆に、私たち人間に対して「許し」の感情があると思えることもある。
クロについて、こんな話もある。ある日、クロが、捨てられたらしい赤ん坊猫をどからか銜えてきた。母が、「クロ、だめよ。よその赤ちゃんでしょ、おいてらっしゃい」と言うと、クロはすごすごと置きに行った。しかし、置いてきたものの、子猫が気にかかるらしく、ブロック塀の上でいつまでも彼方を見ている。母はその姿が哀れで、「クロ、赤ちゃんを連れておいで。お家で一緒に育てようね」と声をかけると、クロはすっとんで連れに行った。そして、なんと、クロの乳が出るようになったのだ。
こんな例をいつまでも列挙していてもしょうがない。つまり、我家の猫達が特別だというのなら、私はそれ以上なにも言うことがない。斎藤先生の折角の研究にあえてケチをつけることもない。ただ、猫の認識能力について、またもや「ツンデレ」伝説がつづいてゆくだろうと思った次第だ。幼くして親から引き離され鳥獣店のケージの中で育ったとか、猫をどのような環境で育てているかなどは重要なファクターであろうし、飼い主が人間として自立した精神であるかどうか、そのうえで猫の存在に敬意をはらっているかどうか等々、猫対人間の関係は、飼い主の側の問題である、と言えるかもしれませんよ。
【関連報道】
朝日新聞
猫は本当に「ツンデレ」? 飼い主との関係、東大が実証 2013年11月20日19時45分