午前中いっぱい小学校の運動会に招かれて見物。
近頃では住まいの近所に幼稚園などが開設されるのを、迷惑だと主張して、反対運動をする人たちがいるようだが、子供達の元気な声が町に聞えるのは、私は嬉しい。死んだ町のように年がら年中深閑とした町に住んで、何が楽しかろう。私が仕事場に籠って作品制作していると、土曜や日曜日など、子供達のボールを蹴る音や、かくれんぼうの声、何だか知らないが楽しそうな笑い声が聞えてきて、私はかえって心に何とも言えない静けさを感じる。
なぜいきなりこんなことを書いたかというと、来賓席に座らされて知り合いと小声で語る話のなかに、今の運動会と我々(老人)の子供時代の運動会の様変わりがついつい出て来る。たとえば、全校生を赤組と白組とに分けて競い合うのは同じでも、今は個人競技に「賞」が無い。運動能力に優れた児童と、そうでない児童の差が出ないようにという配慮らしい。
なるほどな、とは思う。が、ここで無菌培養された子供達が、間もなく競争社会に出てゆくのだから、果たして良い結果が得られるだろうか。少なくとも私がこれまで仕事の場で感じて来た事は、何もできないのに(未熟なのに、あるいは無知なのに)からっぽの自尊心だけが肥大してトラブルメーカーになっている例だ。しかも、悪いことに、「それが私の個性だ」などと主張してはばからない。
そんなのは個性ではない。無知、無教養、未熟、怠慢等々----そんなものはまったく個性ではない。言うならば、それは「幼稚」に過ぎない。
競争社会を否定する考えは存在するが、それはもっと高レベルの問題(それについて今議論する余裕はないが)で、生物は何者であろうとその生から競争を排除することはできない。いわんや我々人間をや。
また、時代の様変わりに戻ると、運動会場に万国旗のような装飾が一切無い。それに添う賑やかな音楽も無い。近所に今日一日の協力をもとめてはいるようだが、やはり騒音苦情がたちはだかっているようだ。たしかに、町は老人医療世帯が増加傾向にあり、静けさが求められているのかもしれない。しかしまた、教育教育と言うわりには、子供の学校環境に対して寛容ではなくなっているのではあるまいか。その方は私には醜いエゴイズムに映る。
競技種目が変わるのは当然だとしても、騎馬戦に女子軍があるのは昔との大きな違いだ。
男女差をできるだけ無くそうというのだろう。
世界の本物の軍隊が男性とまったく同等に女性を採用するような傾向にある。戦闘嗜好は男だけに限らないというわけだ。日本でもかつて「国防婦人会」なるものが、ヒステリックに国民を戦争に駆立てたものだ。いまでも戦争志向の旗降りをしている女性ジャーナリストがいるが、はたして彼女は軍隊に志願して飛び交うミサイルの戦場に身を置くことができるのかどうか。
まあ、それはともかく、戦闘好きな女性は少なくはないようだ。小学校の騎馬戦で済まなくなるかもしれない。
いろいろ気になることはあるのだが、運動会の子供達は元気いっぱい。笑顔があふれ、真剣な顔があり、1年生の可愛らしさがあり、5、6年生のたくましさと上級生としての自覚が端々に観られ、私はおしみない拍手を贈っていたのだった。