名古屋の大学教授・釈迦楽さんが、ブログで小説家・高橋和巳(1931-1971)に触れていられる。それで思い出した。高橋和巳氏が亡くなる3,4年前のことだが、私は高橋氏に会って話しをしている。私はまだ大学生だった。
確実な日時は忘れてしまったが、新宿紀伊国屋ホールで新潮社主催の文芸講演会があった。講演者は高橋氏と武田泰淳氏だった。最初に高橋氏が講演し、それが終わった直後に、私は氏に会いに行ったのだ。
ホールの上階になんだかだだっぴろい部屋があった。新潮社の編集者が案内してくれた先に、ローテーブルとソファがしつらえてあり、武田泰淳氏と高橋和巳氏が向かい合って坐っていらした。私は高橋氏の隣に坐るように言われた。武田氏はすぐに講演のために立って行かれた。で、武田氏の坐っていたところに編集者が坐ることになったが、そのため高橋氏と私は隣り合いながら話しをすることになった。
高橋氏は私の目にいささか暗い顔をされてい、気分もあまりすぐれないようだった。「先生は、いま、スランプなのです」と、編集者が言った。(後に、私は、高橋氏がその状態でよく見知らぬ大学生の突然の面会をうべなってくれたものだ、と思った。)
私は高橋氏の講演内容に絡めて、たしか鈴木大拙師の「億万浄土」の解説を持ち出し、すなわち極楽は億万光年の彼方と目指し、しかしそこに到達したとたんに元の自分の立っていた処だったと知る、それが「悟り」ということで、つまり悟達者は常に衆生の中に還り、衆生と共にあらなければならない--------私はこのことを、高橋氏が支援していられた左翼学生運動に絡めて、理念と実践について高橋氏の意見をもとめたのだった。当時、学生運動は「内ゲバ」などという言葉があったように過激な暴力が少なからず伴っていた。アメリカ黒人解放闘争におけるマルコムXのように、おとなしくしていては変革は起らないので暴力をもって闘うことも辞さない、という思想もあるにはあった。また、後の山谷闘争のように、「やられたら、やりかえせ」という思想の萌芽もあっただろう。私は、それではダメだ。日本人には通じないだろう、と。
私自身は、いわゆる「ノン・ポリ」だった。1年生のときにただ一度デモに参加したが、その論理の支離滅裂にいっぺんで愛想がつきていた。------しかし社会改革の方法論には関心をもちつづけていたのだった。
「あなたは、私にでなく、武田さんに質問したほうがよかったと思います。」と、高橋和巳氏は言った。武田泰淳氏は浄土宗の僧侶の息子だった。そして少し怒ったように、「あなたは、良く知っているではないですか」と言って、一層暗い顔をされた。学生の言うことに一々つきあっていたくなかったのかもしれない。
「先生はお疲れですから-----」と、編集者が言ったのをしおに、私は礼を述べて辞した。
釈迦楽さんが、高橋和巳が死んだのは39歳と書かれていたので、私はあらためて「あっ、そうか、あの時はまだ36,7歳だったのか」と思った。すると私は大学4年、22歳になるかならないかだったのだ。隣に坐り互いの顔を見合わせながら話していた、黒縁眼鏡にダークスーツの姿が、ぼんやり思い出される--------
- 私の蔵書から「憂鬱なる党派」昭和40年初版