朝日新聞webが、2011年3月11日の東日本大震災直後の医療態勢について、大崎市民病院の山内(やまのうち)聡・救命救急センター長らがまとめた調査研究を伝えている(石橋英昭氏記事)。
それによると、震災直後に宮城県の病院で亡くなった1243人のうち125人は、通常の医療態勢ならば死なずにすんだ、というのである。すなわち、125例は「防ぎ得た死」だった、と。
石橋氏の記事は、「要因で多かったのは、医療介入の遅れ▽ライフラインの途絶▽点滴や薬など医療物資不足▽避難所などの居住環境悪化。電源がなくて吸引器が使えず、お年寄りが誤嚥(ごえん)性肺炎を悪化させた例などが目立った。」と書いている。
やはりそうだったか、と私は思った。というのは、当時、私は亡母の在宅医療看護に明け暮れていた。母は、常時、酸素吸入機に繋がれてい、口からの食物摂取が不可能なため鼻腔から液体栄養剤および水を摂取していた。地震とともに酸素発生装置が断線した。五つの安全確認ランプのうち二つの断線だった。とりあえず作動していた。母は呼吸をしていた。そして予備のボンベが2本あった。
揺れが比較的おさまった直後に、電話が入った。病院の指示により酸素発生装置を提供してくれていた契約会社からだった。私は断線のこと、予備ボンベが2本あることを伝えた。すると、「今後、ボンベは東北の被災地に優先供給されます。今、2本あるのでしたら、これからとりあえずあと2本お届けします。」
次に連絡してくれたのは、医療ベッドと吸引機のレンタル会社だった。これも電動である。「停電になれば、吸引機が使えませんので、車のバッテリーを用意します。」
母は、何度か鼻腔からの液体栄養剤が1リットル余も胃から逆流し、口腔はむろん鼻腔もふさぎ、肺に入りそうになったことがあった。「入りそうに」というのは、そのたびに私はベッドに駆け上って母の脚を持って宙づりにし(文字通り、宙づりにしたのである)、それから頭を下にするようにしながら私の屈んだ膝に腰をのせて、そのままの姿勢で吸引機のチューブを口腔深く気道までつっこんで吸引した。医師が駆けつけてくれるまでには応急処置はすませていた。そのため誤嚥性肺炎にならずにすんでいた。吸引機は重要だったのである。
その後しばらくしてまた電話が入った。今度は液体栄養剤を届けてくれている薬局からだった。津波によってこの栄養剤の製缶工場が流されたと言った。この栄養剤はいわゆる生命維持に必要なすべての栄養素を含む完全栄養剤。厚生省が保険適用を認可しているただ二つの銘柄だった。1日3缶を必要とした。
「山田さんのお母さんの唯一の生命線ですから、これから手をつくして掻き集めます。味は同じ物になる可能性がありますが、がまんしてください。」「もちろん、そんなことは構いません。どうぞ、よろしくお頼み申します。」と私はお願いした。------数日後、1ヶ月分、90缶がとどいた。我家の在庫と合せて3ヶ月分ほどが確保できた。(注;その後、缶は他の国から輸入された)
こういう自分の経験から、被災地の患者さんのことを想い、そして、もしやという推測をした。母は、サポート態勢がととのい、俊敏に対処してくださった優れたスタッフにめぐまれた。停電の場合も心配してくれた。幸い地震事故による停電にはならなかったが、「節電」のための時限停電が同じ市内の一部地区でおこなわれた。我家はわずかにその地区からはずれた。運が良かったというべきか、僥倖というべきか。
当時の私の心配した推測が、宮城県内の病院では事実となり、失われなくともよいはずの125名の命が失われた。
上記の研究をもとに、どのような医療態勢を構築していくか。
民生委員として自治会などで私の経験をお話ししたことがあるが、受け取る人の想像力の問題かもしれない、起っていないことを我が身に引き受けて考えることはむずかしいらしい。
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Last updated
Jul 31, 2017 12:49:00 PM
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