クリスマス・イヴ。きょうはクラシックのメゾソプラノ歌手チェン・シさんのクリスマス・コンサート。
私も独唱させてもらう約束だった。午前11時からリハーサル。進行手順やピアノ伴奏との短い打ち合わせ。午後1時開演。
私は「星の界(よ)」と「長崎の鐘」の2曲。「長崎の鐘」は、サビの部分を観客と一緒に歌ってほしいという演出になり、承知して、そのように歌った。あとから、観客から「感動しました」とか「涙ぐんでしまいました」と声をかけられた。ピアニストの梶ひとみさんや、チェリストの浅野真知子さんも、「良かった」と言ってくれたので、素直に受け取っておく。いわば前座で観客の気持を励起するのが私の役目だったとしたら、歌って良かったと思うことにしよう。
----こんなふうな独唱も、そして合唱も、私はステージを降りてからつくずく思うのは、本当に画家とちがうということ。
つまり歌のパフォーマンスは、客観的に自分自身を見詰めることができないのだ(少なくとも,私は、だが)。もちろん、表現のために第三者的なある程度冷めた自意識をそばにおきながら歌っているし、ああここが到らないとか、もうすこしフォルテしても良かったな、などと思いはする。しかし、一瞬のうちに消え去る芸術として、それを身体表現している自分も作品であるとして、それを見ることができない。
絵という作品は、完成後も徹底的に作者自身に刃を向ける。作品の方から作者である私に向かって批評の矢を放ってくる。殴り掛かるように作者を痛めつけるのだ。そして消え去りはしない。人手に渡ればなおのこと、悔恨を取り返せないのだ。
まったく不思議な感覚なのだが、私は歌のステージに立って感動したことが一度もない。じつはキャパシティ1,000人くらいのホールなら、ステージの上から観客一人一人の顔は案外良く見えるものだ。したがって、観客の反応も見て取れるのである。しかし---その観客の反応がどうあろうと、私自身は感動したことがない。
自分自身でびっくりするのは、ステージを降りた途端にすっかり忘れてしまう----、どう言ったらよいだろう、忘れたかのように気持の中に何もなくなってしまうのだ。「今の時間、私はいったい何をやったのだろう---!」という思いがぼんやりきざす。それが正直なところだ。----ひそかに自主練習を猛烈にやるっていうのに---わずか1小節を繰り返し繰り返し練習したりするのに----
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Last updated
Dec 26, 2017 10:45:21 AM
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