小学校の公開授業を民生委員・児童委員として参観。昔の言い方だと1時間目、現在は1校時というようだが、その1校時を1年生から6年生までの各教室を巡って子供たちの勉強を見せてもらった。
公立のすべての小学校の校舎建築様式なのだろうか?
各学年毎にそれぞれ廊下と教室とがドアで仕切られているのだが、広い教室内部は組分けされているもののブース形式。いわゆるドアのないオープン・スペース。つまり教室が「密室」ではない。
なぜこのような形式になったのだろう?
考えられることは,まず、児童によるクラスの荒廃を防ぎ得るかもしれない。また、教室内における目に見えるかたちでの「いじめ」も予防できるかもしれない。さらに教室内での教師による暴力や児童を個人攻撃する虐待を防ぎ得る教師の心理への作用があるかもしれない。
しかし、一方で、それらの問題が表面化しにくく陰湿化する可能性がなくはあるまい。上記のような事態は、現在、全国的な解決しなければならない危急の問題となっている。それをただちに教室の建築形式と結びつけることはできないにしても、あまり気付かれない一因にはなっているかもしれない。
もうひとつ私が、大事な問題ではないか、と思ったことがる。
このようなオープン・スペースであるから、教師も児童も、他のクラスの学習に邪魔にならないように、少なくとも授業中はたいへん静かに勉強している。参観していてそのように感じる。お行儀が良い。
---と、普通なら思うだろう。狭いブースの中だけに聞こえるような声で授業をしているのだ。
子供たちが成長とともに進み行く社会(世界)は、そんなブースのようなものではない。自分の意見を大勢の人たちに自分の声で届けなければならない事態は、稀ではない。むしろ多い。2,30人ほどの会議から数百人、数千人ということもある。そして、マイクロフォンを使えばすむ、というのでもないのだ。無論、マイクロフォンが使えれば、それを使うがよろしかろう。が、自分の声を聴衆に届けるというのは、たんに声が大きければすむというのでもないであろう。
自分一個がいかに小さく、自分をとりまく世界がどんなにか大きいのだという認識。腹を据え、その大きさに飛び込んでゆく、他者をつかまえるための自己認識(自己に対する客観性)---それはひとつの技術であって、じつは子供のときからの訓練によると言ってもよいのだ。
古代ギリシャ社会の人間形成の重要な要素に、弁論術があった。雄弁術、あるいは演説術と言い直してもいい。英語で elocution(エロキューション)という。
---社会人として、また、グローバルな環境のなかで立ってゆくための児童教育の大事な場所として、「お行儀よく静かに」勉強しているブース形式の教室が、はたして適するのかどうか。
私は子供たちの学習を見ながら考えていたのである。