1月16日といえば昔は「薮入り」。商家の雇人(やとど;雇い人)は暇を与えられ、みな生家へ帰った。あるいは盛り場に繰り出す者もいた。たった1日の休みである。昔は、手代・丁稚・下男・下女等の雇い人は住み込みだった。暮れから小正月まで忙しく働いたので、年に二度の休みを心待ちにしたことだろう。他の一度は盆休み。7月16日だった。こちらを「後の薮入り」と言うこともあった。
この習俗はいつ頃まであったのだろう。
明治32年から同35年にかけて3巻本として出版された平出コウ(金へんに堅)二郎著『東京風俗志』によると、明治時代にはあったようだ。おもしろいのは、銭湯はこの日は休めない。ただしこの日の風呂銭は三助(風呂の釜焚きをしたり客の背中を流す下男)の実入りとなった。常連客はこの日は三助のために義理堅く湯屋に行った。風呂屋の三助と女の髪結いの薮入りは翌17日だったという。
同書によれば、東京では商家等の主従の懸隔はわりあいゆるく、下婢も主の娘と一緒に好みの島田髷に結ったり、主の供をして他家に使いにでるときに羽織を着た。それがむしろ礼儀に適っているとされた。一方、京都では主従の懸隔は非常に厳格だった。下婢が髪を結って布切れを使うことを禁じ、紙を折って使わせた。羽織はいかなるときも着るを許さず、日用品の器具にも差をつけた。小僧には頭髪を刈らせず剃り上げて禿(かむろ:いわゆるスキンヘッド)とした。元服(成人)してからようやく散髪を許した。東京は禿ではなく5分刈りだったという。
こんな事情だったとすれば、使用人の「薮入り」の習俗がなくなったのは、昭和の戦後民主主義の時代になってからかもしれない。戦前に出版された俳句の「季寄せ」には、1月の季語として「薮入り」が入っている。
というわけで、私が「薮入り」で、拙い句をひねり出すこともない。しかしこのままでは収まりがつかない。江戸俳人の句をお借りしよう。
やぶ入りや浪速を出て長柄川 蕪村
やぶ入りや琴かき鳴す親の前 太祇
養父入や行燈の下の物語* 召波
やぶ入りの我に遅しや親の足 几董
【*註】召波の句の「養父入」は、「やぶいり」と読ませている。