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カテゴリ:日常雑感
昨日の日記は「香」について私の日常の一齣を書いた。書きながら昔観た展覧会を思い出した。たしか図録を所蔵しているはずだと、きょうになって探してみた。意外にすぐ見つかった。 1993年2月、東京大丸百貨店内にあった大丸ミュージアムにおいて『香りの美学展』が開催された。私はミュージアムから招待されて、開幕の翌日に行った。主催は同ミュージアムと読売新聞社。文化庁とフランス大使館の後援。シャネルや資生堂など多くの企業が協力した。 展示品は、古代ローマの化粧用具、香油瓶各種に始まり、7世紀イスラム初期の香油瓶を通過し、15世紀フランスはルイ15世時代以後20世紀にいたるまでの貴婦人たちの豪華な香水瓶。さらに現代アーチストのデザインによる香水瓶の数々。ヨーロッパにおける香水カタログやポスター。そして東洋の香り。日本の贅をつくした蒔絵の香箱や香棚、香炉、伏籠、香枕、香時計、香道具。銘香(沈香、白檀、肉桂、没薬、乳香、龍涎香、麝香)の実物。さらに香料製造道具である陶磁製の蘭引(ランビキ:蒸留器)等々、全430点。 ほとんど小さな器物のレイアウトながら、たいへん充実した一大展覧会だった。 日本の香り文化が、香枕や香時計のように、大変広い生活領域にわたり且つ優れた工芸技術と和していることに、私はあらためて驚いた。現代のアロマ流行は、世界中の香り文化の歴史的流れを引き継いでいるのだが、しかし日本においては、残念なことに、アロマオイルやアロマキャンドルに代表される文化が、アロマディフューザーを含めて、嘗てのような高度な伝統的工芸技術と固く結びついているとは言い難いのではあるまいか。 寺社における薫香は、ほぼあらゆる文化圏の宗教空間やその儀式目的と同じで、現代の私たちになじみの香り文化である。 私は、昔、パリのノートルダム大聖堂の日曜ミサを見学した。私はクリスチャンでないので、見学である。オルガンの奏楽が響きわたるなかを、大きな振り香炉に先導されて、司祭や大勢の聖職者や6,7人の侍童の列が聖堂に入ってきた。香炉から立ちのぼる香煙は、たなびく雲のように堂内に流れた。 キリスト生誕のときに、東方の三博士が贈り物として捧げたのは「黄金、乳香、没薬(もつやく)」である。黄金は現世の王を意味し、乳香は神を、そして没薬は救世主を象徴している。ミサにおける香煙は、人の心を静め慰めると同時に、立ちのぼる煙に神への願いがこめられている。その願いを神が叶えてくれるという信仰である。 ところで、実のところ私は、女性男性にかかわらずコスメティックスの香りが嫌いなのだ。女性の洗練されたメイキャップの顔は好きなので、矛盾しているのだが、いかにハイ・ブランドのコスメティックスであろうと、とにかく人工的な「匂い」が嫌いだ。・・・昔、大学へ向かう途中で、すてきなメイキャップの女性をみかけた。思わず学校へ行くのをやめて彼女のあとを追い、声をかけた。当時はストーカーという言葉は知らなかったが、まあ、それにまちがいない。むろんみごとにふられた。黄色のワンピース服を華やかに着ていた。58年も昔なのに、いまだに憶えている。何と言って声をかけ、彼女が何と言って私をふったかも。・・・いや、これは余計な話だった。 中近東やアラブ諸国、東アフリカの人たちが衣服に焚き込めている没薬(ミルラ)や乳香(オリバナム)の香りはすばらしい。すれちがうと清潔感が風となってただよう。 私自身がしかたなく使用しているのは無香料の整髪料だけである。夏の汗ばむ時季には、自分のためというより他者に気をつかって、スーツの裏やパンツの裏に、白檀などの小さな匂い袋を忍ばせている。私は毎日料理をするのでコスメティックスの香りを禁忌としている。もちろんレストランなどでは厳禁である。ワインの香りもトリュフの香りもだいなしになる。 しかしながら「香り」については多いに関心がある。私の取材ノートファイルには、「にほいの記憶」という章がある。「香り」「匂い」に関する断片的記述をランダムに放り込んである。たとえば・・・ ◉ 映画『危険なめぐり逢い』1975年、仏伊合作。監督ルネ・クレマン、音楽フランシス・レイ、主演シドニー・ローム、ビック・モロー、マリア・シュナイダー。 ブーツ少年を誘拐した女優アンは、犯行を同居者である美術学生ミシェルであるとブーツに錯誤させるために、ミシェルの香水を使う。アンはブーツに睡眠薬入りのココアを飲ませる。つづくシーンで、アパートに帰って来たアンがミシェルの香水を返す。ブーツは言う。「香水が同じだ」。(ルネ・クレマン監督の最後の作品) ◉ 私は,M某さんの家の昔風の厠の土壁の匂いから、少年時代に住んでいた家の物置小屋の匂いを思い出した。それは大層懐かしい鄙びた匂いの記憶のよみがえりだった。 ●マルセル・プルースト『失われた時をもとめて』の第一篇「スワン家のほうへ」は、マドレーヌ菓子を口にした途端に思い出した山査子(さんざし)の香りから過去の記憶へはいってゆく。 ●匂いは記憶される。また、記憶から再現する。 ◉ 少年時代、好きな人の洗い立ての衣服の匂いにあわい恋心を掻立てられた。 ◉ 自分の体臭には気付かない。嗅覚はもっとも早く順応し、麻痺する。 ●あるとき神戸でのこと。T某さんのマネジャーKさんが、観客のなかに自分のコートに顔をうずめて自分の体臭に陶然としているらしい人がいると、そっと私に耳打ちした。 ◉ 青酸カリで死亡した人の唇は杏のにおい。 ◉ エジプトの遺跡発掘品の香水瓶が、発掘時にまだ匂いを残していたという。 ◉ ナポレオンの艶笑譚。チーズのにおいとジョセフィーヌ。 ◉ 幻臭。 ◉ 「源氏物語」匂宮・・・この名は体臭に由来する。塚本邦雄氏説。 ◉ はなきり刑(鼻に利の右。ギあるいはゲイと読み、この一字で鼻切を表わす)。古代中国の刑罰。「易経」に記述あり。 ◉ 横溝正史『香水心中』(角川文庫『殺人鬼』所収) ◉ ガストン・ルルー『黒衣婦人の香り』(東京創元文庫) ・・・まあ、こんな具合にメモし、取材ファイル「にほいの記憶」の章に放り込んであるのだ。 そうそう、ついでにドイツ映画『パフューム:ある人殺しの物語(Perfume: The Story of a Murderer)』. 2006年。 原作パトリック・ジュースキント、監督トム・ティクヴァ、脚本トム・ティクヴァ、アンドリュー・バーキン、ベルント・アイヒンガー、撮影フランク・グリーベ、出演ベン・ウィショー、ダスティン・ホフマン、アラン・リックマン、レイチェル・ハード=ウッド、ジョン・ハート。 ・・・たしか成人指定映画だった。匂いとエロスの関係を異常性たっぷりに。その抉り方はさすがにドイツ映画と、私は感心した。 18世紀のフランス。下層民の極度に貧困の娘が、魚市場の汚泥の中に赤ん坊を産み落とし、そのまま姿をくらましてしまう。生き延びた赤ん坊は、嗅覚が異常に鋭い青年に成長する。あいかわらず汚泥にまみれて街をうろつくだけだが、あるとき、すれちがったプラム売りの娘の体臭に魅かれて後をつける。彼女の首筋に触れるほど鼻を近づけると、娘は気配に驚いて振向く。しかし、その目はそばに立っている青年を見てはいない。気配の主をほかにさぐっているのだ。青年はおどおどと、自分が・・・、と云う素振りをするが、娘は違うというふうに首を振る。 プラム売りの娘が去ってから、青年は不思議に思いながら自分の掌や腕の臭いを嗅いでみる。臭いがしない。豪雨のなかで素裸になって必死に汚泥を洗い落とし、再び自分の体臭を嗅いでみる。やはり臭いがない。天才的な異常に優れた嗅覚をそなえたこの青年には、体臭が無いのだった。 そして、・・・ナレーションが言う。「彼は存在しなかった(He did not exist)」と。 ・・・私は、このシークエンス(一連の場面)、このナレ−ションに感心してしまった。人間存在の「個」について、これほど端的に哲学的・社会生物学的な解を表現したものに出逢ったことがなかった。 映画のストーリーテリングとしては、冒頭の魚市場の汚泥のなかに産み落とされて捨てられた「存在の意味」に、きっちり結びついているのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 1, 2022 01:43:18 PM
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