暑い夏。・・・これはなにも季節の謂いばかりではない。本日、第2次岸田改造内閣が発足した。「改造」は単なるドタマ(頭、面子)のすげ替えで、泥沼日本政治の浄化をめざしつつの国内外の困難に対する立案ができる行政府であるかどうかは多いに疑問だ。内閣人事においても与党人事においても、黒い霧をまとった人物を切り捨てることはできなかった。この鈍感な政府に果たして何ができるだろう。
悪に染まってしまった人間は、自らを悪と認識できないものだ。したがって、「説明責任」を追求はするけれど、(筆者山田は笑ってしまうのだが)私はこれこれこんなふうに悪事をいたしましたなどと「説明」する悪人が、どこに居よう。もしも説明するとしたら、それは「嘘」を言う機会を与えられたとほくそ笑むだろう。現に某国の首長とその配下の政治家連中の発言が例示している。・・・つまり、説明を求めるためには、追求力が必要だということ。相手をとことん追いつめ、逃げ場をふさぐ周到な準備と本質理解の能力がいるのだ。子どもの学級会のような質問をし、それに対するその場しのぎの応えをひとつ与えられると、もう二の句がつげない。それでは「説明責任」などと当事者に向かって言う資格はない。
しかし、私は最近のマスコミに興味深い傾向があると思っている。旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係についての探索が、右系マスコミも左系マスコミもほぼひとしく追求しているということ。この動勢は、これまでの政治的問題に関する報道にはあまりみなかったことだ。今までなら右系マスコミにしろ左系マスコミにしろ、ちかごろ大流行りの「忖度」が、記事のはしばしに(おそらく社の方針として)見え隠れしていた。それが旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係問題ではマスコミ各社の方針の対立がほとんど見られない。ただし、新聞にしろTVにしろ、個人論評は除かなければならない。どんな問題についてもTV芸者論評はあとをたたないらしい。
この件に関するかぎりマスコミ各社の主張対立が見えないと思っていたら、じつは今朝、私の家のポストに立派に印刷されたチラシが投込まれていた。それは中国系の一種のカルト宗教団体のチラシだった(ただし中国はこのカルト教団を弾圧した)。私は「なるほどな」と思ったのは、そのチラシの主旨は明確で、「勝共」だった。つまり韓国系の旧統一教会と同じ目的である。
本来なら、この二者はおそらく対抗的な関係かもしれない。しかしながらここにきて、上述のようにマスコミ各社が同じような方針で旧統一教会のありようを追求していることに、このチラシの団体は脅威を感じたのではあるまいか。旧統一教会と政界あるいは政治家個人との関係を、政界で率先して追求している野党を、このチラシの団体は名指しで敵であるとしている。旧統一教会を外側からサポートしている、と言えよう。また、宣伝工作次第では弾圧国家体制に対する反撃する機会、そして今こそ自らの勝機だと思っているかもしれない。
日本は、この押し寄せる黒い霧とそれがつくりだした深い闇から脱出するのは、相当難しいだろう。むしろ日本のことなどどうでもよくて、闇は深ければ深いほど甘い汁を吸えると思っているのが、国民を食い物にする日本の政治屋かもしれない。
「まさか、まさかと思っているのが命取り」
そうじゃないかえ、みなの衆!