午前中、眼鏡屋へ行く。開店前に到着し、店の前で20分ばかり開店を待った。しかしそれで第一番の客となり、結局、検眼等をふくめて私独りで2時間も検査士を独占してしまった。
以前に造ったときのレンズの処方箋を持参したが、もう今の私の視力には合わなくなっていた。私自身が日常的に気付いていたことで、検査士の指摘に驚きはしない。ただ、目が命と思っている絵描きのはしくれとしては、いろいろこまかい注文を出す。ぴたりと合う眼鏡がつくれないことは分かっていても、ああでもないこうでもないと言う。検査士はにこにこ笑いながら良くつきあってくれた。
もっとも、しまいには少しネをあげたようで、私の目はもはやレンズで調整できる問題ではない、と言った。つまり私の、・・・生まれながらかどうかは分からないが、・・・目の生理的特性、ということだ。はははは、そうかもしれない。
ところで私はいま77歳になるまでに、いったい幾つ眼鏡を造り直して来ただろう?
これまでまったく考えたこともなかったが、帰りの電車のなかでふと思った。一番最初は中学1年生のとき。13歳だ。会津若松の神明通りの突き当たりにあった川俣眼鏡店でつくった。
母がこのために会津若松にやって来てつきそってくれた。眼鏡はすぐにできあがったように憶えている。そして、この日はたしか会津白虎隊祭りだった。できたばかりの眼鏡を掛けて、神明通りのなかほどで、山車行列を見ていた。山車にはそのころ人気があった「新諸国物語 笛吹童子」の高丸菊丸に扮した花ノ本寿氏が乗っていた。
(ついでに。私は、ずいぶん後年になって、花ノ本寿氏の現在の映像を思いがけないところで観た。染織家・久保田一竹氏のアトリエに能楽師の梅若猶彦氏と共におじゃましたとき、一竹氏がプロデュースしたショーのヴィデオを見せてくださった。そのショーに花ノ本寿氏が主演していたのだ。)
そして、その最初の眼鏡は、やはり中学生の1年か2年のとき、路地でキャッチボールをしていて、相手が投げたボールが私の右目の眼鏡に当たった。もちろんレンズが割れて壊れた。不思議なことに怪我をしなかった。しかし、それ以来、球技がまったくできなくなった。
これと同じようなことが、もう一度あった。1992年だったと思う。愛猫の天才クロが重病になった。一時入院したが、しばらくして通院するようになった。ケイジに入れて自転車の荷台にくくりつけて私が病院通いをした。或る日、私の気持が何か急いていたのかもしれない、病院に到着して荷台のゴム紐をはずしたとき、紐の先のフックがゴムの弾性ではねかえり私の右目を直撃した。レンズはこなごなに砕け、破片が目の周辺に刺さった。医師がすぐに手術室のライトを点けて診てくれた。もちろん動物専門医である。一応、突き刺さった破片は取り除いてから、すぐに眼科へ行くようにと言った。
・・・このときまでに、眼鏡はすでに何回も造り直して来ていた。
そして、近年になって、またもや同じことをやらかした。
民生委員合唱団の一員として、その日はコンサートに出演することになっていた。日曜日だった。コンサートホール以外の施設は休みで、ドアは一部開いていたが灯りは消されて真っ暗だった。
私はユニホームに着替える前に、トイレに行った。ホールのトイレは混雑していたので、勝手知った施設のトイレを使おうと、暗がりの中を向かった。
トイレの灯りは人感センサーだったので問題なかったのだが、トイレを出たとたんに真っ暗になってしまい、一瞬方向感覚が混乱した。一歩踏み出したとたんに、顔ごとガッツンとレンガ壁にぶつかったのである。
眼鏡のレンズは割れなかった。ああよかったと、顔は傷ができているようだが、なんとかステージには上がれそうだった。ホールで鏡を見ると、身体の向きを加減すれば客席からは傷は見えないであろうと思った。歌は、うまくいった。歌いはじめれば痛みは忘れた。
帰宅して眼鏡をよくみると、あわやのところで右のレンズが落ちそうになっていた。壁にガッツンと鼻をぶつけたので眼鏡の鼻パッドに力がかかり縁を破壊していた。
・・・こうやって今日にいたるまでの眼鏡の来歴を思い起こしてみると、私の場合、視力が落ちたので眼鏡を新調したのではなく、私のおっちょこちょいが禍いしての結果だ。もうはっきりは憶えていないが、結局、13歳から77歳までの間に8回造り直している。その年月を均等割りできないが、平均すると8年に一度だ。・・・どうなのだろう? 8年毎だとすると、まあ、適当なような気がしないでもない。ははは、自分で自分を慰めているようだが。