11月の落葉
来ぬ人を思えば落葉踏む音ぞ 青穹(山田維史)
からからと落葉転がり喪の葉書
明日ありと今日この時の落葉かな
俳句つながりでCNNの記事を巡って書いておこう。
CNNは、「カメなどの爬虫類や両生類53種の鳴き声を特定したという研究結果が、科学誌ネイチャー・コミュニケーションズに発表された。多くはそれまで鳴かないと思われていた種だった。」と記事を書き起こしている。
確かに亀が鳴くのを聞いたことがある人はいないかもしれない。ただし、俳句には「亀鳴く」という季語があり、亀が鳴くことを知識として知っていて、このCNNの記事に今更という思いで首を傾げた読者がいたかもしれない。私もその一人だった。
俳句の季語になったその典拠は、藤原為家の『夫木集』に収載されている歌であると言われている。すなわち、「川越のをちの田中の夕闇に何ぞときけば亀のなくなり」がその歌である。
この歌をして、何か他意を勘ぐる人はいないであろう。都人である貴人が田舎への旅すがら、遠く夕闇の田んぼの方角から都では耳にしたことがない声を聞きつけた。あれは何の声だと問えば、「あれは亀が鳴いているのでございます」と鄙人は応えた。・・・実に素直な歌である。そのあたりに住む鄙人は亀が鳴くことを知っていたのである。
藤原為家の素直さに比べると、現代の俳人高浜虚子はやはり近代の病というべき「理」に勝ちすぎているかもしれない。虚子にこんな句がある。「亀鳴くや皆愚なる村のもの」
亀なんか鳴くものか、亀が鳴くなどと言う愚かな村人たちよ。・・・虚子は、こう言い放った。
近代俳句において「亀鳴く」という季語は、「愚か者」の代名詞となっているのではないか、と私は思う。
ものを知らないとはどういうことか。鄙人(村人)なのか知識人を気取る町人なのか。いやはや、怖い怖い。・・・CNNのおもしろ記事から引っ張り出した私の感慨である。
【追記】内田百ケン(門がまえに月)に『亀鳴くや』という短編小説がある。友人である芥川龍之介の自死に至るまでを作者内田の視点で書いている。その最終章(八)は、ただ一行。二つの俳句を一行で書いている。その二句。「亀鳴くや夢は淋しき池の縁」「亀鳴くや土手に赤松暮れ残り」
これらの句の「亀鳴くや」は、内田の耳に聞こえなかった、しかし、亀は鳴いていたのだという、友人の自死を悼む哀切な思いが伝わってくる。私の理解ではあるが・・・
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Last updated
Nov 15, 2022 07:05:30 PM
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