午前中に雑用が一段落したとろでYouTubeで映画を観た。今井正監督『ひめゆりの塔』(昭和28・1953年、東映作品)である。現在、YouTubeにおいてホスト〈なつかしの映画〉氏が、戦前戦後のまさに懐かしの映画を放送している。私は時間を見つけては観ている。このシリーズ放送がいつまでつづくか分からないが、私にとってはまことにありがたいシリーズである。
さて、今井正監督『ひめゆりの塔』を私が観るのはおよそ70年ぶりだ。つまり私はこの作品を初公開時に観ていたのである。8歳であった。
昭和27年、敗戦国日本はこの年に国際的に独立国として承認された。同時にGHQは、掌握していた日本の映画製作の検閲を終了した。それによって戦後7年間、戦争映画を製作できなかった日本映画に、戦前戦中とは異なる精神、ことなる視点の戦争映画が生まれることとなった。
じつはGHQの検閲の最中にも、強い意志で、この戦争が何であったのかを問う映画は作られていた。昭和25年(1950)に東映が製作した関川秀雄監督『きけわだつみの声』。『戦没学徒兵の手記』を原作とし、八木保太郎構成、舟橋和郎脚本の反戦映画である。GHQが許可したのは、反戦映画だったからでろう。
次いで新藤兼人監督の『原爆の子』(昭和27・1952年、近代映画協会・劇団民芸提携作品)が生まれた。そして、『ひめゆりの塔』がつづいた。
以上の3作品は、戦後日本映画史上で特筆されるべき作品である。出演俳優たちが戦争を通過したばかりなのだから、ある意味で演技を超えて自らが経験した惨めな戦争を語る内的衝動があったのだ、と私は思う。戦争の経験から少しずつ遠くなってきた後年の日本戦争映画は、いささかならずセンチメンタルに、ロマンチックに、堕すようになった。しかし上記映画の制作スタッフも俳優たちも、戦時愛国主義のかけらに甘ったれてぶらさがることはできなかったであろう。
じつは、私は、『原爆の子』も初公開時に観ていた。『原爆の子』も『ひめゆりの塔』も、長野県の川上第二小学校の二階の音楽室を会場にして上映されたのである。普通の一教室であるから広いわけではない。観客は子どもたちばかり数十人。床に座って観た。たぶん映画鑑賞教室としての上映で、入室できる人数を限って、何回かに分けていたのかもしれない。私の最も早い映画に関係する記憶に残る2作品である。
私は小学1年生と2年生の1学期までを川上第二小学校で過ごした。この短い期間に、もうこのブログ日記に何度も書いたが、私の人生最高の教師・樋口カエ子先生に出逢った。そして今思い出してみると、映画鑑賞教室として『原爆の子』や『ひめゆりの塔』を子どもたちに見せた、この小学校の教育方針に有難さを感じ、また驚きもする。なぜなら、近年のことだが、『はだしのゲン』を学校図書館で閲覧禁止にした教育委員会もあるからだ。
私はいつも思うことなのだが、教育委員会は事、学校教育に関しては愚かなことばかりやっている。それはまさに「反教育」と言ったほうがよいような愚かさである。文部科学省も同様である。「類は類を呼ぶ」と言う。保身ゆえに視野が極端に狭い、学の中途半端な者たちが蝟集しているのではないかと、我ながら奇怪な疑念が湧く。
時代は移る。しかしながら私たちは、平和とは何であるかを歴史から学んだであろうか。現在、日本も世界も、自滅の方向へ進んでいる。人を欺き、盗み、犯し、殺し・・・将来的に、何百年も、あるいは千年も、決して癒えることがない人類に対する国家的犯罪が行われている。
かつてナチス政権下のドイツでは、知識層は国家の犯罪行為に対してそれを阻止するための如何なる努力もしなかった。国家の名のもとに600万人が殺害されるのを黙視していた。
いや、わが日本においても同様であった。知識層は努力をおこたった。戦争に進んで行った当時の日本がファシズム国家だったという議論に、疑問を提出する意見がある。・・・そうだろうか? 弁解はいくらでもできよう。しかし、軍国主義制度のなかで国民は自由を剥奪され、「御国に奉公(報恩報国滅私奉公)」という言葉で国民の生命がないがしろにされ、「弾」として用立てるために「産めよ、殖やせよ」と叱咤され、餓え、国家が暴力専門機関となっていた・・・その国が、ファシズム国家ではなくて何だったというのか。
私たちは、現在、他国の実情を鏡として過去の日本国を映すことができよう。その機会に立っているのだ。他国の暴力を批判・非難するのはよい。世界の安寧を願えばこそ当然の非難である。そして当該国の支配者に対してより、何よりも国民の実情を慮らなければならないからだ。しかし、その批判・非難するときに、過去の我身の振舞を反省する気持を忘れてはなるまい。
YouTube今井正監督『ひめゆりの塔』
【追悼】
14日の朝刊で、中山きく氏の御逝去を知った。
中山きく氏は、沖縄戦に16歳で動員され、「白梅学徒隊」として洞窟(ガマ)などで負傷兵の救助活動にあたられ、米軍の猛攻のなか辛くも生き延びられた。その経験を長らく自ら語ることはなかったが、戦後50年を過ぎた頃から、他の学徒隊(全9隊)の消息とともに正確な記録を残すべく多大な尽力をされた。
私は、昨日、まったく偶然に、中山氏の所属された「白梅学徒隊」とは別動隊である「ひめゆり学徒隊」の悲惨な最期を描いた映画を観た。今私は中山氏の死去のニュースに驚いている。
中山きく氏、享年94。 衷心よりご冥福を祈ります。
山田維史 合掌