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カテゴリ:読書
西行全集を勉強しなおそうと、その予習を兼ねて辻邦生氏の小説『西行花伝』を再読していた。西行の周囲に在って親しくしていた貴人たちの回想と西行自身の思い出話によって、西行その人を浮かび上がらせるという仕組みの小説である。 私が西行を読み直そうと思い立ったのは、心身を歌作に献げ、半生を過ぎる人生を歌に没入した人物であったが、同時代の先達で西行を教えその歌才を認めていた藤原俊成の歌の境地とも(まったく)異なる歌、と私は感じていたからである。辻邦生氏もおそらくそのように感じていたらしいのは、『西行花伝』において辻氏は西行が歌に没入していく想いを、「私にとって唯一の関心事は、歌とは、たとえばこの花の好さ、月の好さをいかになまなましく閉じこめる器であるか、ということだ。」と西行に語らせている。この思想を辻氏は作中でしきりに書いていられる。しかしながら、この思想を語りながら、小説を運ぶ核として作中に引く西行の歌はいずれも花や月に風流に遊んではいない。いや、私には風流に遊んではいない、と思えるのだ。西行の歌が俊成やその子息定家の歌とは歌心において異なるのではないか?、と私は感じるのである。この私の思いを、辻氏は「(西行の歌は)激しい思いのなかへ踏み込んで行くという趣がある」と、弟子の藤原秋実(ふじわらのあきざね)に語らせている(新潮社単行本初版p.500)。西行の出自が定家や俊成のような貴族ではなかったからだろうか?・・・西行全集を読み直してみようと思い立った所以である。 ところで、こう書き出したけれども、実は私は別のことを書き留めておこうと思う。 『西行花伝』 は二十一の帖(21章)から成るが、その十九の帖に西行の独語として重源(ちょうげん)が登場する。東大寺大仏殿を再建した俊乗房重源である。東大寺大仏殿は、治承4年 (1180)、平重衡(たいらのしげひら)によって火を放たれて消失した。翌年、平清盛が死去し、平家は西海に追い詰められて滅亡した。同治承5年(養和元年)、鎌倉幕府の力添えによって重源は大仏殿再建に着手した。造寺官の任命があり、その秋、重源は勧進行脚の途に上った。 『西行花伝』 は西行の独語として次のように書いている。 〈・・・重源が奈良からわざわざ訪ねてきて、(略)東大寺大仏殿の再建の次第を私に諮ったことである。重源とはむろん面識はない。ただ、「仏法の滅尽、かくのごときは我朝は言うに及ばず、天竺・震旦にも聴かざるなり」と叫んで、朝廷から東大寺再建の委託を受けたという話を聞いていただけであった。〈改行)重源は年のころ六十前後、浅黒い不敵な面魂で、南都の学生派と堂衆派との争いに関係を持たず、どこかから突然現われて再建勧進の中心となった謎めいた男であった。〈略)その口にすることが本当であるとしても、全体が一つになると、どこか嘘めいた、空疎な響が漂っているのである。(略)有力者とも面識がないまま、諸国を遍歴しつづけた果てに野心をようやく果そうとしている男の言葉であり挙措であった。(改行)私は重源を嫌ったのではない。また重源が偽りで大仏再建に取り組んでいたというのでもない。重源の言葉は一つ一つ本当であろう。だが、重源が何か言うと、私のなかで、警戒心のようなものが、そっと耳を立てるのを感じた。〉(新潮社単行本初版p.464-465) 長い引用になった。たしかに重源の伝記は東大寺大仏殿再建以前については不明な点が多い。後に述べる小林剛氏の研究によれば、紀氏の出ではないかとしている。 重源は、西行に大仏再建の手助けを依頼しに来訪したのである。すなわち、陸奥国の藤原秀衡と面識がある西行に、陸奥国の砂金等の財物を提供するように交渉することと、その財物を確実に奈良に届くように鎌倉幕府・源頼朝と交渉してくれまいかというのだった。そして引用したここには、西行が会った重源の印象(人物像)が西行の言葉として書かれている。しかしながら、この重源像は辻邦生氏の想っている重源像と言ってもいいのではあるまいか。 私がこのあたりの記述にいささかの違和感を覚えたのは、この辻邦生氏の重源像についてである。 私が俊乗房重源に関心を抱くようになったのは、兵庫県小野市に現存する浄土寺浄土堂への関心からである。この御堂は重源が東大寺大仏殿再建後に建立した。大仏様と称されている建築様式で、この様式の建造物は東大寺南大門と浄土寺浄土堂と、わずか2例のみが現存する。この御堂に私が魅かれるのは、仏教思想(浄土思想)と心像(イメージ)と天文学と地勢が、建築(設計、構造力学、金策、資材調達、工人招集、建材による実現)に、みごとに統合されているからである。すなわち、西方浄土思想のイメージは次のように実現される。夕方に御堂の西側の蔀(しとみ)を開けると、観音菩薩(向かって左)と勢至菩薩(向かって右)を従えた中央の阿弥陀本尊像の背後から沈みゆく夕日が金色燦然とした後光として真っ直ぐに射し込み、床に反射し、その反射光は阿弥陀像のやや前方の斜めの天井に再反射して阿弥陀像の御顔を照らす。朱漆で塗装された堂内の柱という柱が真っ赤に輝く。三間(約18m)四方の御堂の柱や貫はすべて光の箭となるように設計されているのである。そして、夕日がこのように真っ直ぐ射し込むためには、天体運行と地勢とが厳密に計算されていなければならない。・・・このあらゆることの地上における統合こそが、芸術のめざすことではないか? 私はそのように考えて、めまいのような陶酔感を覚えた。そして、それを実現した人物である俊乗房重源に関心が向かったのである。 私が26,7歳のころだった。神田の古書店が並ぶ通りを御茶ノ水駅に向かって足早に歩いていた。田村書店を通り過ぎようとして、右目の片隅にちらりとウインドゥーに飾られた一冊が入った。「あっ!」と足を止めてウインドゥーに近づいた。小林剛著『俊乗房重源の研究』だった。奈良国立文化財研究所々長だった小林剛博士の逝去後に遺稿としてみつかった論文を、博士の衣鉢を継ぐ方々によって昭和46年に限定出版された本である。私は店内に入って価格を問うた。高かった。持ち合わせもなかった。私は帰宅してからもその本が忘れられなかった。入手したかった。 翌日、なけなしの金を持って、田村書店に行った。ウインドゥーに『俊乗房重源の研究』は無かった。聞けば、たった先ほど売れたのだと言う。・・・私は金がないために何度か本を入手しそこなっているが、このときほど落胆したことはない。東京の恐ろしさを感じたことはない。 その後、私は東京都立中央図書館に行き、館外貸出を申請した。ところが『俊乗房重源の研究』はもう長い間、或る区の公立図書館経由で館外貸出になったまま返却されていない、と言うのである。(後に私はある論文を見て、その著者が長期館外貸出の借主だったに違いないと推測した。) さて、限定出版から9年後。小林剛著『俊乗房重源の研究』が、多くの要望に応えて改版出版された。私は出版社に直接問い合わせて送ってもらった。ただし残念なことに、この改版本には、限定版に収載されていた図版が削除されていた。限定本を見ていない私にはもともとどんな図版だったかわからない。改版出版に携わった方々の努力には謝するが、著者渾身の研究に付された図版を削除したその見識を私は理解できない。 ・・・というわけで、小説『西行花伝』に描かれた辻邦生氏の重源像に私はかならずしも納得しない。しかし、東大寺に現存する木彫重源座像を見ると、辻邦生氏が重源を謎めいた男と想ったのは無理からぬこととも思える。その重源像は口を固く結び、意思厳格な、一筋縄で行かない様子ではある。
小林剛『俊乗坊重源の研究』昭和55年改版第一刷 有隣堂刊 『圖説 東大寺』昭和27年 朝日新聞社刊 6篇の解説風な論文を収録。戸田直二郎「大佛開眼」、藤原義一「東大寺の建築」、上野直昭「東大寺の彫刻」、春山武松「東大寺の絵畫」、岡田譲「東大寺の工藝」、澤瀉久孝「東大寺建立と文學」、筒井英俊「大佛造顯とその思想信仰」、飯島幡司「お水とりと青衣女人」。 杉本健吉による東大寺全図、佐藤辰三による月光菩薩像カラー写真一葉、入江泰吉による63葉の黒白写真。および挿図22点。 参考までに紹介したが、本書の入手は現在では困難かもしれない。入江泰吉の63葉の写真の中に、俊乗坊重源坐像がある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 14, 2024 06:01:00 AM
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