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スター・ウォーズのつづき。 今日は、フォース(Force)と氣(Qi)の関係について。 「氣(Qi)」とは何か? この問いに対する答えは容易なものではありません。少なくとも、中国古典において紀元前に使われていた「氣」の用法は、その多くが宇宙生成論においてでして、代表的なものとしては老子の第四十二章が挙げられます。 『道生一、一生二、二生三、三生萬物。萬物負陰而抱陽,沖氣以為和。』(『老子』 第四十二章) →道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物は陰を負い、陽を抱いて(並存しており)、沖氣(沖の字は本来はにすい)を以って調和している。 『有物混成、先天地生。寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆、可以為天下母。吾不知其名、字之曰道。』(同 第二十五章) →天地に先立って、混沌とした何かがあった。静かであり、形もわからない。何にも影響されず、あまねく行き渡りながら何にも変えられない。これを天下の母となすべきだ。私はその存在の名前を知らない。あえて名づけて道(Tao)とする。 参照:『荘子』と『淮南子』の宇宙。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005186/ 『臣安萬侶言。夫混元既凝。氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分。參神作造化之首。陰陽斯開。二靈爲群品之祖。(『古事記』上卷 幷序)』 →臣、安万侶が申し上げます。混沌とした元素が固まり、氣のありさまが未だとらえられない頃、無名にして無為であり、誰もその形を知りませんでした。その後に乾坤(天地)が初めて分かたれ、三神が創造の魁となり、陰陽が開けて、イザナギ・イザナミの二霊が諸々の祖となりました。 ・・・日本で最も早くこの「氣」の記録があるのが『古事記』の上奏文です。「混元の氣→乾坤(天地)→陰陽→」という流れの片鱗がこれにも見て取れます。 参照:荘子と太一と伊勢神宮。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005176/ この「氣」は、フィクションの世界でも独特な変化を遂げます。 特に、武術(Wushu)や気功(Qigong)の技法をさまざまな形式で展開する大衆娯楽、武侠(Wuxia)作品においては、その発展は顕著でした。 こちらは、1960年代の香港映画、『如来神掌』という作品の一場面です。火雲邪神というキャラクターと三人の道士とが、互いに氣を放出して応酬しています。この当時、基本的に目に見えない「氣」を、音や視覚効果によって直接的に描き出そうとしていました。現代人の目から見れば子供だましのような特殊効果ですが、今から半世紀以上前に「氣」を描こうという試みがあったということの実例の一つです。 参照:如來神掌大戰三絕掌 https://www.youtube.com/watch?v=B5Jh9nJjP7g これは、表現としてはシスが使う「Force lightning」とよく似ています。 参照:Star Wars - Yoda vs. Palpatine HD quality https://www.youtube.com/watch?v=9DI8kkR9G0Q 最近の例で言うと、 日本では、現在放送しているテレビシリーズ『スター・ウォーズ 反乱者たち(STAR WARS:REBELS)』(2014)の第3話「嘆きのドロイド」で、主人公のエズラが無意識にフォースを使って人を吹き飛ばすというシーンがあります。これ、金庸原作の『神雕侠侶(しんちょうきょうりょ)』(2006年度版)の中で、主人公の楊過がとっさに「蝦蟇功(がまこう)」を使うシーンとそっくりです。「剣と気功の江湖世界」で展開される武侠と『スター・ウォーズ』とはこういったところでも共通性が見られます。 参照:Return of the Condor Heroes / 神雕侠侶 - 2006 - English Sub - Ep 2 https://www.youtube.com/watch?v=E8MIL4kA_Ms 開始後12分くらい。 ちなみに、金庸が1959年から3年間執筆した武侠小説『神雕侠侶』は、たびたび映像化されまして、去年のバージョンはこんな感じです。 参照:《神雕侠侣》2014 陈晓版 主题曲MV 浩瀚 主唱:张杰 https://www.youtube.com/watch?v=kbLaMhfvm7g 空気の密度というべきか、光の屈折の度合いによって氣の存在を描くのが最近の武侠モノの流行のようです。この水準でテレビドラマが製作されていることが、大陸での金庸作品の巨大さを雄弁に物語っています。金庸原作の武侠作品における「氣」も、技術が進めば進むほど透明度が増す傾向にあります。そうすると、ジェダイのフォースの表現に似てきます。 参照:スターウォーズと武侠。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/5200/ 日本でも「気」という漢字は、「天気」「気温」「二十四節気」といった外的環境を表す言葉と、「気分」「気持ち」「気づき」といった人間の意識や内面の事象を表す言葉の両方にあてられます。この「気」の用法ひとつをとっても、マクロコスモスとミクロコスモス、外的宇宙と内的宇宙の関連性が強く結び付けられる中国の思想における「氣」の思想の影響がわかると思います。これは、瞑想における「呼気」と「吸気」で説明すると分かりやすいかなと思います。自分の体内から気を吐き出し、新しい気を外から取り込む。ここにも内と外の気の関係がありますね。日本語でよく使われる「元気」という単語も、本来は、宇宙生成論における「混元の氣」のことを指すものでしたが、医療用語に転用されるなど、生命の根源的なエネルギーというような意味に使われるようになりました。 参照:『黄金の華の秘密』と『夜船閑話』。 http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005146/ 『一若志,無聽之以耳而聽之以心,無聽之以心而聽之以氣。聽止於耳、心止於符。氣也者、虚而待物者也。唯道集虚。虚者、心齋也。』(『荘子』人間世 第四) →「志を一つにせよ。声を聴くのに耳ではなく心をもってせよ。そして、心ではなく【氣】をもってせよ。耳は聴くに留まり、心は知るに留まる。【氣】はすべてのものを受け入れることができる。雑念がないがゆえにすべての本質は虚にのみ集まる。無心でいるがゆえに、心斎といえるのだ。」 こちらは人間の内面と「氣」の関係を記した『荘子』の言葉です。 これについて、フランスの中国学者、アンリ・マスペロは、著作においてこう記しています。 ≪回心は神秘的生体験への入り口に過ぎない。これを終わりまで追求しようとする人は、長い浄化の段階、すなわちキリスト教徒のいう「浄めの道(ヴォア・ビュルガティヴ)」を通らなければならない。荘子はこれを「心斎」とよび、祭りによる斎戒、すなわち祭りに先立つ儀式としての物忌み、と対比させている。同じように、回教の神秘主義者は、肉体の外面的な禊の儀式に対して、魂の浄化を対立させている。シブリの言うところによると、ある日かれがモスクに行くために、いましも禊をすませたばかりのとき、かれを責める声がきこえた。「おまえは自分の外側を洗ったが、おまえの内部の清浄さはどこにあるのか」と。この心斎について荘子は次のように定義する。 おまえの注意を一つにせよ。耳で聴かずに、心で聴け。心で聴かずに「気」(霊)で聴け。きこえるものがおまえの耳を通り過ぎないように、おまえの心が専一になるようにせよ。そうすれば、「気」(霊)は「虚」となり、実在を把えるであろう。「道集」、すなわち道との合一は「虚」によってのみ得られる。この虚が、すなわち心斎である。 これは、神秘主義者における浄化ということ、すなわち外物の放棄と、それからの超脱、そして外物の影響から全く解放されて「虚」になった霊[精神・アーム]が実在を把え、絶対者と無媒介な直接の冥合に入るように、心を純化し、統一し、集中するということ、を見事に要約したものである。そして不思議なことには道家がその状態を記述しようとした「虚」という表現は、かれらに独自なものではない。スーフィ教徒は同じように、「神は人の心を空虚にして、神自身の認識を受けさせる。それゆえに、直観的なこの神の認識は、心のなかに神の純粋性を拡げてゆく」と言っている。教義的には異なった説明のなかに、同じ心理的体験が認められているのである。(東洋文庫刊 アンリ・マスペロ著『道教』より)≫ 「虚心坦懐」という言葉がありますが、本質と向き合う場合の精神のありかたについて、荘子は「氣で聴く」ことを諭します。 STAR WARS - The DEATHSTAR BATTLE re-edited part 2 https://www.youtube.com/watch?v=aQFrl5rpXMg 中華圏では「フォース(force)」は「原力(yuanli ユエンリー)」と表現されます。特に大陸の人々にとっては初めての、劇場での『スター・ウォーズ』となりますが、もし「氣」という字をあてていたら、興ざめであったはずです。たとえば、日本人にとって「フォース」は「元気」に最も近いですが、“May the force be with you(フォースと共にあらんことを)”という挨拶を「お元気で」と訳されたら、SF感が台無しですよね。 今日はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.12.23 10:00:23
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