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大河ドラマ『西郷どん』放送開始記念。 本日は、西郷隆盛(1828-1877)と儒教について。 参照:Wikipedia 西郷隆盛 https://ja.wikipedia.org/wiki/西郷隆盛 言わずと知れた維新の元勲、西郷隆盛は、歴史的な功績はもちろんのこと、その人柄も多くの日本人に親しまれてきました。しかし、生来寡黙な人物で、また、西郷自身から進んで思想を発信したということも少なく、著作というものもありません。ただし、戊辰戦争以降に西郷と親交を深めた出羽庄内藩(現在の山形県庄内地方)の藩士たちが取りまとめた言行録『南洲翁遺訓』がありまして、この『遺訓』によって、我々は西郷の思想を窺い知ることができます。 ❝命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして國家の大業は成し得られぬなり。去れ共、个樣(かやう)の人は、凡俗の眼には見得られぬぞと申さるゝに付、孟子に、「天下の廣居に居り、天下の正位に立ち、天下の大道を行ふ、志を得れば民と之に由り、志を得ざれば獨り其道を行ふ、富貴も淫すること能はず、貧賤も移すこと能はず、威武も屈すること能はず」と云ひしは、今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば、いかにも其の通り、道に立ちたる人ならでは彼の氣象は出ぬ也。(山田済斎 編 『西郷南洲遺訓』岩波文庫より)❞ ❝學に志す者、規模を宏大にせずば有る可からず。去りとて唯此こにのみ偏倚(へんい)すれば、或は身を修するに疎に成り行くゆゑ、終始己れに克ちて身を修する也。規模を宏大にして己れに克ち、男子は人を容れ、人に容れられては濟まぬものと思へよと、古語を書て授けらる。 恢宏其志気者。人之患。莫大乎自私自吝。安於卑俗。而不以古人自期。 古人を期するの意を請問せしに、堯舜を以て手本とし、孔夫子を教師とせよとぞ。(同上)❞ ・・・幕末の武士ですから、西郷に儒学の素養があるのは当然です。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。」という有名な一節は『孟子』が引き合いに出されています。 『論語』でいうとこのあたり。 ❝子曰。飯疏食飮水。曲肱而枕之。樂亦在其中矣。不義而富且貴。於我如浮雲。 (『論語』述而第七)❞ →先生はこうおっしゃった「野菜を食らって水を飲み、肘を曲げて枕にする。そんな生活の中にも楽しみはある。義に背いてまで豊かになったり高い位に就くなんて、私にとっては浮雲のようなものだ。」 「命もいらぬ」というと、「志士」の語源のこちら。 子曰「志士仁人,無求生以害仁,有殺身以成仁。」(衛霊公第十五) →先生はこうおっしゃった、「志士、仁人は仁を損なってでも生を求めるものではない、我が身を殺してでも仁を成すのである。」 また、西郷が「堯舜を以て手本とし、孔夫子(孔子のこと)を教師とせよ」という箇所がありますが、「克己(こっき)」「修身」など儒教において重要な字句が並んでいます。特にここは朱子学で強調されるところですが、己に克つ、「克己(こっき)」は『論語』に由来する言葉です。 ❝顏淵問仁。子曰「克己復禮為仁。一日克己復禮、天下歸仁焉。為仁由己、而由人乎哉?」(『論語』顔淵第十二)❞ →顔淵が「仁」について質問した。先生はこうおっしゃった「己に克ち、礼に復して仁を為す。一日自分に打ち克って礼に立ち戻ることができれば、天下は仁に帰するであろう。仁を為すというのは己自身の問題である。他人に頼ったところで意味があるだろうか?」 ・・・別名『西郷論語』とも称される『南洲翁遺訓』は論語からの影響が特に濃厚でして、例えば『論語』における「仁」の使い方に注視して照らし合わせると、西郷の意図を汲み取り易いのではないかと思います。 ❝文明とは道の普く行はるゝを贊稱せる言にして、宮室の壯嚴、衣服の美麗、外觀の浮華を言ふには非ず。世人の唱ふる所、何が文明やら、何が野蠻やら些(ち)とも分らぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蠻ぢやと云ひしかば、否な文明ぞと爭ふ。否な野蠻ぢやと疊みかけしに、何とて夫れ程に申すにやと推せしゆゑ、實に文明ならば、未開の國に對しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開矇昧の國に對する程むごく殘忍の事を致し己れを利するは野蠻ぢやと申せしかば、其人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑はれける。(上記『西郷南洲遺訓』より)❞ ❝子曰。不患人之不己知。患不知人也。 (『論語』学而 第一)❞ →先生はこうおっしゃった、「他人が自分を理解してくれないと心配しなくてよい。自分が他人を理解していないことを心配しなさい。」 ❝子曰、「默而識之、學而不厭、誨人不倦、何有於我哉。」(『論語』述而 第七)❞ → 先生はこうおっしゃった、「静かに事物を知り、学ぶことを厭わず、倦(う)まずに人を教え続ける。私にはそれだけなんだよ。」 ❝西洋の刑法は專ら懲戒を主として苛酷を戒め、人を善良に導くに注意深し。故に囚獄中の罪人をも、如何にも緩るやかにして鑒誡(かんかい)となる可き書籍を與へ、事に因りては親族朋友の面會をも許すと聞けり。尤も聖人の刑を設けられしも、忠孝仁愛の心より鰥寡(かんか)孤獨を愍(あはれ)み、人の罪に陷るを恤(うれ)ひ給ひしは深けれ共、實地手の屆きたる今の西洋の如く有しにや、書籍の上には見え渡らず、實に文明ぢやと感ずる也。(上記『西郷南洲遺訓』より)❞ 西郷が、西洋の制度を評価する場合にも、徳治主義に近い部分についての共感があります。 ❝子曰、道之以政、齊之以刑、民免而無恥、道之以徳、齊之以禮、有恥且格。(『論語』 為政第二)❞ →先生はこうおっしゃった「人々を導くのを政によって、人々を正すのに刑罰をよってすれば、民はその政や罰から逃れる事ばかりを考え、恥じることがなくなるだろう。人々を導くのを徳によって、人々を正すのを礼によってすれば、人々は恥を知り同時に道理をわきまえるようになるだろう。 ❝漢學を成せる者は、彌漢籍に就て道を學ぶべし。道は天地自然の物、東西の別なし、苟も當時萬國對峙の形勢を知らんと欲せば、春秋左氏傳を熟讀し、助くるに孫子を以てすべし。當時の形勢と略ぼ大差なかるべし。(上記『西郷南洲遺訓』より)❞ ちなみに、西郷のオススメは「左伝」なんだそうで、ここは福沢諭吉と同じですね。 参照:靖国神社と中国古典 https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201403070000/ ・・・西郷といえば「敬天愛人」。西郷はここでも「克己」を強調します。 ❝道は天地自然の道なるゆゑ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を修するに克己(こつき)を以て終始せよ。己れに克(か)つの極功は「毋意毋必毋固毋我(いなしひつなしこなしがなし)」と云へり。総じて人は己れに克つを以て成り、自ら愛するを以て敗るるぞ。(上記『西郷南洲遺訓』岩波文庫より)❞ ❝道は天地自然の物にして、人は之れを行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふゆゑ、我を愛する心を以て人を愛する也。(同上)❞ ❝子絕四「毋意,毋必,毋固,毋我。」(『論語』子罕第九)❞ →先生は以下の四つを断たれた「意地になるな、拘るな、頑なになるな、我を張るな。」 ・・・「敬天愛人」の思想は、朱子学や陽明学ではよく見られる展開ですが、今回は王陽明の『伝習録』から。 ❝夫聖人之心,以天地萬物為一體,其視天下之人,無外內遠近,凡有血氣,皆其昆弟赤子之親,莫不欲安全而教養之,以遂其萬物一體之念。天下之人心,其始亦非有異於聖人也,特其間於有我之私,隔於物欲之蔽,大者以小,通者以塞,人各有心,至有視其父、子、兄、弗如仇仇者。聖人有憂之,是以推其天地萬物一體之仁以教天下,使之皆有以克其私,去其蔽,以復其心體之同然。其教之大端,則堯、舜、禹之相授受,所謂「道心惟微,惟精惟一,允執厥中」而其節目,則舜之命契,所謂「父子有親,君臣有義,夫婦有別,長幼有序,朋友有信」五者而已。(『伝習録』)❞ →聖人の心とは、天地萬物をもって一体となし、天下の人を見るのに内と外、遠近の区別なく、およそ血の通う者であれば、身近な親類の子弟のように安んじて見守り、万物一体の教えへと導こうとするのである。天下の人心も、その始まりにおいては聖人の心と異なることはない。己が内に我執がはびこり、物欲が感性を隔てるようになると、ゆったりとした心がちまちまとなっていき、やがてふさぎこんでしまう。そのうち人心がバラバラとなって、親子や兄弟ですら、まるで敵同士のようにいがみ合うようになった。聖人はそこを憂い、天地万物と一体の仁を天下に教え広め、皆にある我執や物欲に打ち克ち、本来人間の有する聖人と同様の心に復しようとした。その教えの始まりは、すなわち堯、舜、禹の時代に授かり「道心はただ微妙であり、ひたすら精神を一とし、中庸をとらえて失うな」という教えのみであった。その守るべきものというのは舜が契(ケイ)に命じて教授した「父子に親有り、君臣に義あり,夫婦に別有り、長幼に序有り,朋友に信有り」という五者のみであった。 ちなみに、『論語』の中で、「仁」について問われたとき、孔子は「愛人(人を愛することである)。」と説いています(顔淵第十二)。 ❝忠孝仁愛教化の道は政事の大本にして、萬世に亙り宇宙に彌り易(か)ふ可からざるの要道也。道は天地自然の物なれば、西洋と雖も決して別無し。(『西郷南洲遺訓』岩波文庫より)❞ 参照:教育勅語と儒教。 https://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/201705070000/ ・・・西郷の場合には、薩摩の郷中教育や、私淑していた藤田東湖、『言志四録』の著者である佐藤一斎などの影響は明白で、大塩平八郎や、三島由紀夫などと同じように、西郷と新儒教、特に陽明学との関係を指摘することが多いです。 例えば、内村鑑三の『代表的日本人』。 西郷隆盛はその筆頭に挙げられています。 “(西郷は)若いころから王陽明の書物には興味をひかれました。陽明学は、中国思想のなかでは、同じアジアの起源を有するもっとも聖なる宗教と、きわめて似たところがあります。それは、崇高な良心を教え、恵み深くありながら、きびしい「天」の法を説く点です。わが主人公の、のちに書かれた文章には、その影響がいちじるしく反映しています。西郷の文章にみられるキリスト教的な感情は、すべてその偉大な中国人の抱いていた、単純な思想の証明であります。あわせて、それをことごとく摂取して、あの実践的な性格を作りあげた西郷の偉大さをも、物語っているのであります。 西郷は、ほかにも、仏教の中ではストイックな禅の思想に、いくらか興味を示しました。のちに友人に語った言葉からわかるように、「自分の情のもろさを抑えるため」でありました。いわゆるヨーロッパ文化なるものには、まったく無関心でした。日本人のなかにあっては、たいへん度量が広くて進歩的なこの人物の教育は、すべて東洋に拠っていたのであります。 ところで、西郷の一生をつらぬき、二つの顕著な思想がみられます。すなわち、(一)統一国家と、(二)東アジアの征服は、いったいどこから得られたものでしょうか。もし陽明学の思想を論理的にたどるならば、そのような結論に至るのも不可能ではありません。旧政府により、体制維持のために特別に保護された朱子学とは異なり、陽明学は進歩的で前向きで可能性に富んだ教えでありました。 陽明学とキリスト教との類似性については、これまでにも何度か指摘されました。そんなことを理由に陽明学が日本で禁止同然の目にあっていました。「これは陽明学にそっくりだ。帝国の崩壊を引き起こすものだ。」こう叫んだのは維新革命で名をはせた長州の戦略家、高杉晋作であります。長崎ではじめて聖書を目にしたときのことでした。このキリスト教に似た思想が、日本の再建にとって重要な要素として求められたのでした。これは当時の日本の歴史を特徴づける一事実であったのです。(『代表的日本人』内村鑑三著、鈴木範久訳 岩波文庫)” 朱子学と対比する形で、陽明学を「革命思想」ととらえ、西郷の思想の源泉とする内村鑑三の見方は、伝統的な西郷論としてオーソドックスなものですが、当ブログとしては、西郷の言葉は儒教全般にわたり、陽明学の影響はあるものの、西郷の思想を「陽明学」の棚に分類するのには抵抗があります。 彭祖、何ぞ希わん 犬馬の年 塵類に牽かれず 閑権を握る 新生祝賀 人と異なる 静かに誦す 南華の第一篇 彭祖のように長生きができても、犬馬のように縛られた年月を経たくはない 塵や芥のような世事に流されず、長閑に時を過ごしたい 新年を祝うめでたい日にすら、世間の人とは違ってしまったのだな 静かに荘子の第一篇を読み、天地を逍遥するのだ もちろん、儒教の枠だけに留まるものでもありませんし。 本年はこの辺で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2018.01.14 21:32:28
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