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カテゴリ:想起した詩
息せき切らして目の前を駆け抜けたボクに、
その少年は言ったんだ。 「そんなに急いで何があるの?」 ボクはふとその歩みを緩めた。 「何って…、そりゃ…」 言ってて口篭もってしまう自分に気がつく。 なんだよ、言い返してやればいいじゃないか、堂々と。 すると、少年が足早に近寄ってきて、 「そんなに急いで疲れないの?」 「疲れないさ!みんなこうやって生きてるんだ。おまえこそ、ボクなんかに声かけてないで、さっさと走らないとまずいんじゃないか?」 あまりにもその少年の言葉が純粋すぎて、ボクはつい怒鳴ってしまう。 怒鳴ってしまったことに慌てて気が付いて、謝ろうとしたボクに、 「ボクはもう走ることが出来ないんだって。そうお医者さんが言ってた。お母さんも泣いてたから、きっとウソじゃないと思う」 ボクは二の句が出てこなかった。 もう歩けない少年に「走ったらどうなんだ?」なんてボクはなんと思慮のない大人気ない発言をしてしまったんだろう。その場に居たたまれなくなったボクは、少年の顔から目線を反らした。なぜボクは、いつもカッとなって何か取り返しのつかないことを言ってから、その愚かしさに気付くんだろう。なぜもっと人のことを第一に考えてあげられないんだろう。 少年はそのボクの雰囲気に気が付いたのか、 「ごめんね、お兄さん。引き止めちゃって。でも、お兄さんみたいに走りぬいた先に何があるのか、知っときたかったんだよね。お兄さんはボクの分も頑張ってね」 少年の声は震えていた。 きっと必死の思いでくりだした言葉だったんだろう。 見知らぬボクにいらぬ心配をさせまいと、なんとか搾り出した一言だったんだろう。 ボクはこの少年の思いに応えなくてはいけない、そう思った。 「さっきの答え。まだ言ってなかったね」 「うん。教えてくれるの?」 「急いで走る先に、何かあると思ってた?」 「えっ??」 驚く少年の声。聞きたかった応えではなかったのが容易に窺える瞳の形。 でも、それでもボクはこの少年に手向けを送ろうと思う。真実を伝えようと思う。もはや少年には、自らの力でその答えを推し測っていくなんて叶わないんだから。 「ないんだよ、何にも。それをみんなわかってるのに、他人に置いていかれたくないから、出し抜かれたくないから、無我夢中で走るんだ。誰も助けてはくれないし、誰も助けようとはしない」 目を丸くする少年。その瞳が純粋すぎて、ボクは少年に少しの嫉妬と殺意を覚える。きっと、この子は歩くことを失ったおかげで、醜いこの競争からリタイヤすることに成功したのだ。変わらずボクはエントリーされたままだというのに。 「でも、じゃあ、みんなで辞めちゃえばいいんじゃないの?」 少年の瞳はどこまでも澄んだ青空のよう。少年の心は全てを優しく包み込むスポンジのよう。もしそのまま漆黒を吸ってしまったら、きっと一日で使いものにならなくなってしまうだろうな…。 「大人になるとね、みんな本音では話さなくなるんだ。君も大きくなったらわかるよ。そして、本当のことを言わなくなった人々は、自分が信用できないことを知ってるから、誰も信用できなくなる。だから、自分からこの道を止まるなんて、できないのさ」 「でも、お兄さんは止まれたみたいだね」 え…? 「おめでとう」 今なんて…? 訳がわからないまま、ボクは泣いていた。 なんでだろ、ずっとその一言を待ってた気がする。 誰かにそう言って貰えるのをずっと求めてた気がする。 ボクは泣き顔を恥ずかしげもなく少年に晒すと、 「ありがとう」 精一杯微笑んでみた。 それにつられるかのように、少年も微笑む。 ボクよりも一回りも二回りも小さい少年に、ボクは諭される。 もう一度ボクは口にした。道の真ん中で惜しげもなく、 「ありがとう。ありがとう。ありがとう」 なんて汚い顔をしてるんだ。鏡があったらそう呟きそうな顔を、その時のボクはしていたに違いない。が、ここは天下の往来、鏡なんてありゃしない。だから、誰もボクの失態を覗き込めやしないんだ。目の前の少年以外はね。 「じゃ、ボクはそろそろ行くね」 少年がボクに踵を返す。 「待てよ、歩けないんだろ? どこにも一人じゃ行けないんだろ?」 少年は頷いて、 「うん、そうなんだ。だから、やり直してくるよ。また始めから」 「お兄さん、またもし会えたら、またボクと遊んでくれるかな?」 照れた顔をやや俯けて、少年はそう呟いた。 「待ってくれ、ボクも君と一緒に行くよ。ボクもこんな世界に未練なんてないんだ。連れてってくれよ。始めからやり直したいし、君とは離れたくない」 少年が大きく何度も首を横に振る。 「こればっかり駄目なんだ。ボクは一人で行かなきゃいけない。それに、お兄さんは待ってる人がいるでしょう? あなたを必要としてくれる人がまだいるんでしょう? だったら、ぼさっと突っ立ってないで、戻らなきゃ。もちろん、走るのはナシだよ」 最後の方の言葉に含み笑いが混じる。 ボクも負けじと笑ってみせる。置いていかれるのは辛いけど、君がそう言うなら仕方ない。今回はボクが折れることにしよう。 「ああ、もちろん。もう走らないさ。歩いてみせる。一歩ずつ、一歩ずつ」 「ありがとうね、……さん………」 少年が最後に何か言った気がした。大切な、大切な何かを。けれど、ボクの意識は急速に薄れ、聞き取れない。 なんて言ったんだ? 最後になんて言ってくれたんだ? ああ、ちょっと待てって。 待てっていってんだよ! 「ああ、あなた。目が覚めたのね」 その声は妻の沙耶(サヤ)の声。 「ああ、長い夢を見てたよ。ところでここは?」 ボクは目に入るもの全てから、ここがどこであるか瞬間的に判断する。 「病院?」 「ええ、あなた、智の病室に入るなり気を失ってしまったの」 待てよ、沙耶。なんで、なんで泣いてるんだ? ちょっと、ちょっと待ってくれ。 「本当は何をしてでも起こそうとしたんだけど、あの子が『寝かせておいてあげて』って、『パパは急ぎすぎて疲れちゃったんだよ』って」 沙耶の声がどんどん上ずる。反対に、ボクの精神は驚くほど冷め切っていた。 ボクは妻の次の言葉を待つ。聞いたくない。本当は聞きたくなんかないんだ。 ――でも、もう本人から聞いちゃってるんだ――― どうしようもないじゃないか ボクは、ボクに未だ何も告げられないで、泣き声をかみ殺すのが精一杯の妻の肩を抱くと、自分の方に引き寄せた。 そうだな、ボクにはまだおまえの他にもう一人、ボクを必要としてくれる人がいるらしい。この重さが亡くなるまでは、ボクはまだここであがき続けてみるよ。君が出来なかったこと、君が夢見たこと、ボクにはもう変わりに叶えてあげることは無理かもしれない。でも、あの約束だけは守ってみせる。 ボクはずっと男は社会で生きていくものだと思ってた。 人生とは、忙しさの中にこそ遣り甲斐を見いだすものだと思ってた。 全部、間違ってた。 それに気がつくのに、随分と大切なものを失ったもんだ。 でも、もう大丈夫。うん、大丈夫だ。 ボクはかけがえのないものの暖かさを隣に感じながら、今はもう歩けなくなった彼思いを馳せる。 君のいた五年間、ボクは何もしてやれなかったけど、どうだったんだい? 何か、何か一つでも喜びを感じることはできたのかな? ――刹那、 少年の最後の言葉が鮮明に浮かんでくる。 「ありがとう。お父さん、あなたの子供でよかった」 それから程なくして、ボクは会社に辞表を出しに行った。 どうやってかって? もちろん、歩いてさ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.04.12 15:10:11
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