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初めての授業は
最も教育熱が熱い地域にある教室の 一番上のクラスの数学だった。 前任はウチの塾で一番の看板講師のK先生だ。 嫌でも比較される。 どんな授業をしたのか今でも覚えている。 とにかく生徒のことを考えない最悪の授業だった。 おめでたいことに そのときは自分の授業がなぜ駄目だったのか 全く分からなかった。 次の日、本部にクレームが入った。 早速会議にかけられ、僕はひとつ下のクラスに回されることになった。 そのクラスは幸いにも僕を暖かく迎えてくれた。 ただ、上のクラスの生徒のことを考えるたびに 強烈な自分へのコンプレックスを抱えることになった。 今でも思っていることがある。 塾というのは人気商売だ。 たとえ同じ会社であっても 生徒の人気をとってナンボなのだ。 講師間でしか見えない競争がそこにある。 決してK先生は僕を助けてはくれない。 自分で乗り越えるしかないのだ。 その悲しさを乗り越えるのに手を差し伸べてくれた人たちが Y先生とI先生だった。 だいたいの自分のポジションが見えてきた頃 唐突にY先生とI先生が会社を去ることになった。 リーダー格だったK先生も一緒に去っていった。 僕はひとり取り残されたような気分になって 僕も辞表を出した。 もう一度、建築の道に戻ろうと思っていた。 けれど、塾長に引き止められて 僕は非常勤講師になって春まで働くことになった。 授業は手を抜かなかったが 気持ちは宙に浮いたような感じだった。 一体俺の人生ってなんやんねん、とか かなり投げやりな気持ちになっていた。 そんなときだった。 Y先生が教室長を務めていた教室に 僕がしばらくの間、入ることになった。 僕は立場上、その頃は非常勤なのだが 社員としての仕事を知っているので 春になって新しい社員が入るまでの間 僕がその教室を管理することになった。 その教室の雰囲気は今でも覚えている。 場所のイメージは… シティーハンターの冴羽遼の事務所みたいな雰囲気の漂う教室だった。 そしてその教室は 僕の特別研修の場所でもあったし なんども寝泊りした、本当に思い入れのある教室だった。 Y先生を良く知る生徒たちは 僕にとって、なんとかしてあげたい生徒たちであった。 春になったら辞める僕にとって なんともふさわしく、なんともいえない解放感を 感じていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 25, 2006 02:58:52 AM
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