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塾に就職して2年目
僕は縁あって、新教室の教室長になった。 春の募集で最終的に集まった生徒は20名程度。 理系担当が僕で、文系担当が新任のT先生。 そしてお目付け役としてKJ先生がサポートに入るという 体制だった。 KJ先生は第二次世界大戦の時、海軍の通信士として 活躍された人で、英語はベラベラ。 街で外国の人に出会う度に必ず話しかけるという 年齢を感じさせない、かなりパワフルな人だった。 僕が社員として復帰し、新教室の教室長になれたのも KJ先生が塾長に伝えてくれたことが大きかった。 KJ先生の授業はとても硬質な感じだった。 ちょっとでも生徒が喋ろうものなら 「黙れ!」 と一喝する。 教師と生徒の境界線をはっきりと分けた そういう授業だった。 僕はそれが生徒にとってもいいと思っていました。 それはKJ先生の生徒に対するスタンスが 自然に思えたからです。 硬くても、ぶれる事なく 最後まで授業をやり終える。 ぶれない… これは僕の中で、自分にないものだったように思う。 KJ先生の生徒に対するスタンスは たぶん最後まで変わらない、そんな感じがあった。 僕はまだそれを模索しているような段階だった。 その頃の僕は 生徒とキャッチボールがしたかった。 1年目のときの挫折感が それを助長させたのかもしれないし 塾講師を志した当初から どこかで思っていたことだったように思う。 学力はバラバラだったけれど クラスは分けなかった。 学力差による進捗の遅れは確かにあったけれど それを無視できるくらい 生徒のパーソナリティに魅力があった。 出来る子もそれをよく理解していて みんな認め合っていたように思う。 そうやって僕は やっと仕事に生きがいを見出していくようになった。 日々の授業が 自分にとって、何かしらの糧になっている実感があった。 それが何かはよく分からなかったけれど 塾の世界で生きていく上で 感じなければならない充実感のように思われた。 新教室を立ち上げて1年目の2月末 文系担当のT先生が塾を去ることになった。 KJ先生も塾を引退されることになった。 僕は悲しかった。 T先生やKJ先生のことが大好きだったからだ。 飲み会をしたときにT先生は僕に言った。 「先生の授業はあまり上手いとは思いませんでしたけど 熱くやっておられるから大丈夫ですよ。 僕はずっと塾を続けてはいけませんわ。」 酔いつぶれて、朝起きたら教室だった。 黒板を見たら 「お世話になりました。」 と大きく書かれてあった。 それを見て僕は 複雑な気持ちだったが 自分を見失ってはいなかった。 まだまだ頑張ろうと思っていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Oct 19, 2006 11:19:04 AM
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