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カテゴリ:つれづれ
まさに中華思想の象徴のようなオリンピック開会式を見ていたら,日を越してしまった。どういう演出によるものかは知らないが,国際公式行事の進行が予定より一時間以上も遅れるなどというのは通常は恥ずべきものであるというべきである。
さて,今日8月9日は,今から63年前の1945年に長崎市に原子爆弾が投下された日である。まさに改めて戦争の惨禍への思いを巡らさなければならない日と心得ている。 よく反核運動のスタイルの違いを評して,「怒りの広島,祈りの長崎」などといわれるが,長崎に住んだこともなく縁故者もいない私は本当のところはよく分からない。ただ,広島市民になって十有余年,広島における反核平和の主張に違和感を感じているのは先日書いたとおりである。簡単にまとめてしまえば,「核兵器の惨禍だけを主張したらそれで足りるものではない」ということである。これには理由が二つある。 その1。戦争による空爆被害は原子爆弾だけではない。全国各主要都市で焼夷弾により虫けらのように焼き殺されたり,一般市民を意味もなく機銃掃射で打ち殺されたりしているのである。これらの行為の悪辣性は,原子爆弾投下と何も変わることはない。ただ,その被害の大きさ,人体にもたらす影響,後世への遺伝的影響が桁外れに大きいことが,核兵器廃絶へのモチベイションになっているだけである。だから,反核平和を唱えるならば,そもそも論として腹を据えて反戦というものを考えなければならないのである。 その2。情緒的な核兵器廃絶論は,国際政治の現実論なるものを唱えるものの核抑止論によって簡単に踏みつぶされる。これまでは,実際に使われたら悲惨なことになるという議論をかえって声高に続けてしのいでいたようだが,私に言わせれば全く意味がない。 ”Fleet in being”という言葉がある。海軍力というものは実際に使われるよりもその存在そのものに意義があるというということらしい。すなわち,戦艦というのはそもそも油が切れたら終わりだし,沈没したり大破したりしたらすぐに修繕して,あるいは新しい戦艦を造って,というわけにはいかない。そのことから,実際に一戦交えるためと言うよりは(それはすなわち艦隊決戦と言うことになって,国運を賭しての戦いと言うことになる),海軍力の存在自体をもって戦争の抑止力にするために海軍が存在している,というリアリスティックな思考からこのように言われるようだ。 これを,ちょっと応用すると,”Nuclear in being”という考え方に簡単に行き着く。確かに核兵器は悪と言うべきだし,使われた場合の被害の甚大さは承知している。しかし現に核兵器を保有している国がある以上,防衛のために核武装するのは当然のことだ。核兵器は存在することに意味があるのだと言われたら,なまじっかな主張で反論することは難しい。 ことしも,広島,長崎の慰霊の日を迎え,そして8月15日がやってくる。前の戦争によって殺された方々の思いに報いるためには,何があっても戦争など許さないという腹の据わった不戦の誓いを,そして戦争はいかなる動機によるものであっても違法なものであるということを,強く主張しなければならないと思う。特にこの数年非常に強くそう思う。 だいたい,第二次世界大戦においても,結局指導する人間の無定見な冒険主義的動機が戦争の主たる動機だったというべきである。要するに,相手国はともかく自国の国民のことさえどうでもよかったのである。タカ派とか何とか言われて威勢のいいことだけ言う外交音痴や軍事オタクなどに国を任せてはいけないという教訓だけは,せめて21世紀の我々も噛みしめなければいけないだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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