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テーマ:たわごと(26839)
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私も一時期陥ったワナなのだけれど,誰かに 「この人,自信がない」 と思うことの根拠。 ふと見渡すと,日本には自信のない人たちがあふれているように感じられる。 だがそれは見せ掛け。 思うにプライドの高い人が多いのだ。 そして,社会や周囲から与えられる,『謙虚であれ』というプレッシャー。 この社会では,『謙遜は美徳』なのだよね。 アメリカでは正反対なのをご存知だと思うが,たとえば面接などで,いかにして自分の能力を雄弁に語るかが採用の合否にかかってくる。 多分に日本でそれを行ったら,煙たがられたり,うまく運んだとしても後から「口ほどのこともない」 と評されることも多々だと思う。 海にもそれ,「自信をもちなよー!」を言ってくれる人が時々いる。 おほ♪ きたぞきたぞ! と思いながら,それを受ける。 時に黙って吟味し,時になぜにこの人がそれを言う? と思いながら。 はっきりそうと口に出すか否かは別として, 「自信はあふれるほどあるのよ。根拠のない自信が。 戒めるためにあえてそういう視点も持っているの。」 これが海の言い分だ。 そして,それは必要なことなのだろうか?という思いに及ぶ。 なぜに自信にあふれていてはいけないのだろう? 海個人の話をすれば,それは過去に,そのような態度を『生意気だ』として制裁を受けたことに由来する。 上述もしたが,後から「口だけじゃん!」と陰口をたたかれるのもイヤだからだ。 海の肉体的耳に入ることは無いとしても,好むと好まざるとにかかわらず,そういった思いをもった人の声が聞こえてくるのだから仕方がない。 被害妄想に陥っているとは思えない。 あくまで,「そんなエネルギーが流れてくる。」のだから。 たいていにおいて,後からそれらを裏づけする情報も入ってくる。 誰だって,好き好んでいやな思いをするわけがないのだ。 そして,それらのいわゆる『制裁』を加えた人たちが,必ずしも正しかったわけでも,あるいは彼らが間違っていたわけでもない。 あくまで「ある状態」の時の海に,「ある教え」を施してくれた方々がいただけということ。 これは掛け値なしにありがたい。 海が今回取り組むのは,あのときに受けた名残を払拭すること。 『えらそうに見える』ような自信の持ち方は,それはエゴでしかないのであろう。 「本当の自信」のある人は,偉そうなそぶりも,傲慢なそぶりも,ましてや人に何かを押し付けるような何かもない人なのであろうと予想する。 とても自然体な人。 自信があるんだー! などと押し出すわけでも,自信がないのよー。 と卑下することもなく。 たんたんと。 樹齢1200年の樹がただそこにどっしりと存在するように。 泰然とした雰囲気。 「自信」を他の言葉で表すとしたら,そう,この言葉。 泰然自若。 「自信がある」という状態は,自分をはいわんや,他の人に自信があるとかないとか,そんなことすら問題にしないと思う。 そこに確固として存在することを,疑う余地すら微塵も感じないのだ。 なんでもそうなのだが,「本当の何か」とは実は誰にもわからないものでもあり,それでいて誰もがそうだと認めてしまうものなのだと思う。 ピア・プレッシャーや遅れをとりたくないという心にも基づくのであろう,身を守るための長いものには巻かれろ的な群集心理。 これに惑わされた人気投票的なもの,海は一切信用しない。 流行を作り上げるそのバイタリティと粘り強さ,そしてそのような空気をキャッチするアンテナには敬意を表するが。 自らを信じる。 エゴの混じらないそれ。 人に惑わされないそれ。 海は,自信にあふれているとも言われるし,もっと自身を持ちなよとも言われる。 それらをいう人々の視点が,また面白くて仕方がない。 自分を信じるというのは,自分の鏡である他人を信じること。 他人を信じるということは,ひいては地域や社会を信じるということ。 そしてそれらは世界や宇宙を信じることにつながる。 間違ってるかもしれないよ? 誰もそんなことを教えてくれた人はいないのだから。 それもまたありだ。 万物は流転する。 人に教わったものなんて,昨日の新聞や先月の雑誌と同じだ。 情報でしかない。 血となり肉となり,人生の糧となるエネルギーの元でもない。 自信を持つということは,何も怖いものはなくなるということだ。 それは向こう見ずに怖いものすら知らないわけでも,怖いものがあるのを無視するということでもない。 人である限り,恐怖はついてまわる。 何かを怖がっている自分を発見するだに,「大丈夫」と自分に言ってあげられること。 人に言われるのではなくて自分自身でそれらを発見すること。 それが自信なのだと,しみじみと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.09.09 13:55:01
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