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2017.02.06
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全18件 (18件中 1-10件目) 安積親王と葛城王
カテゴリ:安積親王と葛城王
「安積親王と葛城王」 あ と が き
安積親王という名に気がついてからこの作品に取り組んでみて、はじめて安積親王と葛城王との関係を知りました。葛城王は、のちに橘諸兄と名を変えますから、同一人物です。その上、安積という地名と郡山に伝わる采女伝説のなかの葛城王(橘諸兄)が、安積親王と深く関連する事実に驚かされました。 郡山で葛城王と言えば、『安積山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに』の歌が有名です。この小説は、私なりのこの歌の解釈が主題となりました。その結論は本文中に載せましたが、これはあくまでも推論であって、これが正しいとは主張しておりません。私見ということでご覧頂ければ幸いです。 これを書いていてさらに驚かされたことは、時代は下がるのですが、橘為仲の存在でした。彼が詠んだ歌、『陸奥の芳賀の芝原春くれば吹く風 いとどかほる山里』もまた、安積と微妙に関係していたのです。そこで郡山市や奥羽大学図書館で橘為仲に関係する書籍にあたりインターネットで調べましたが、何ら進展することがありませんでした。 橘為仲の話は、表題の『安積親王と葛城王』の付録のようなものとして書き綴ったのですが、むしろその調査は困難を極めました。苦しんだ末、思い切って私は自分のブログ『福島の歴史物語』に情報提供依頼のコメントを載せたのです。そして約三ヶ月、いささか諦めかけたころ、岩手県の白戸明氏よりブログ上に反応があったのです。 白戸氏は実に真摯に対応してくださっていました。国会図書館や岩手県立図書館に足を運び、月刊誌の『国語と国文学』『和歌文学研究』など私が知り得なかった文書を見つけ出して教えてくれたのです。結論から言えば、氏もまた『陸奥の芳賀の・・』の歌を見つけることは出来ませんでしたが、将来に望みをつなげる内容の文書を送ってくださったのです。その内容につきましては、『橘為仲』の稿にその要点を引用しましたが、実は白戸氏に助けられたのはこれが二度目でした。 最初は2006年に忠臣蔵の前後を書いた『大義の名分』を出版した直後でしたが、それは赤穂浪士・小野寺十内の養女の行動についてでした。一度ならず二度までもお世話になったことを、この場をお借りして心よりお礼を申し上げます。
最終更新日
2012.12.11 10:42:11
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2012.11.22
カテゴリ:安積親王と葛城王
資 料
安積親王に関係の深い人の略歴を載せておきます。 阿倍内親王(基王の実姉・安積親王の義姉) 天平十(738)年、史上初の女性皇太子となる。結婚はできず、子 もなかった。将来皇位につくことが決定した事が理由と考えられる。 天平勝宝元(749)年、父・聖武天皇の譲位により即位した(第四 十六代・孝謙天皇)。母の光明皇后が後見したが皇太后のために皇太 后の甥の藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)が紫微中台を新設。長 官には藤原仲麻呂が任命され、皇太后を後ろ盾にした仲麻呂の勢力 が急速に拡大した。これに反抗した橘奈良麻呂(橘諸兄の子)は討 たれる。また天武天皇の孫である何人かの王が皇位を狙って挙兵し たが、いずれも失敗におわった。 天平宝字二(758)年、孝謙天皇は退位して孝謙上皇となったが、 次の第四十七代・淳仁天皇と軋轢を繰り返して追放し、孝謙上皇が 重祚して第四十八代・称徳天皇となった。 神護景雲四(770)年、称徳天皇は河内の由義宮に行幸、ここで崩 御した。称徳天皇は皇位継承者であったことから生涯独身を余儀な くされた。 井上内親王(安積親王の長姉) 養老五(721)年、井上内親王は五歳で伊勢神宮の斎王(斎宮)に 卜定され、六年後の神亀四(727)年、伊勢に下向した。 天平十六(744)年、弟の安積親王の薨去にともなって斎王の任を 解かれ、退下した。帰京後、白壁王(第四十九代・光仁天皇)の妃 になる。 天平勝宝六(754)年、三十七歳という当時としては高齢の出産で 酒人内親王を産む。 天平宝字五(761)年、四十五歳で他戸親王を産むが、あまりにも高齢であるため現代の学者の間でも真実かどうかで意見が別れている。 宝亀元(770)年、夫の光仁天皇が即位すると、それにともなって 立后され、また翌年には他戸親王が立太子される。 宝亀三(772)年、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、他戸 親王も皇太子を廃された。 宝亀四(773)年、井上内親王と他戸親王は、大和国宇智郡(現在 の奈良県五條市)の没官の邸に幽閉され、幽閉先で他戸親王と共に 薨じた。なお、この不自然な薨去には暗殺説も根強い。 不破内親王(安積親王の次姉) 天平十(738)年頃、天武天皇の孫で新田部親王の子である塩焼王 に嫁ぎ、志計志麻呂、川継の二人の息子を産んだ。塩焼王は天平宝 字元(757)年、臣籍降下をして氷上真人塩焼と改名した。しか し天平宝字八(764)年に塩焼王は恵美押勝の乱に加わったとし て処刑される。 神護景雲三(769)年、称徳天皇を呪詛し、息子の志計志麻呂を皇 位に就けようとしたとして、厨真人厨女(飯炊き女の意)と名を改 名された上、平城京から追放され、志計志麻呂は土佐国に流罪とな った。しかし宝亀二(771)年、それが冤罪だったと判明し帰京 する。 宝亀七(776)年から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の 怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。井上内 親王も不破内親王も恨みを呑んで亡くなったようなので、悪霊扱い されたと思われる。 延暦元(782)年、息子の川継が謀反(氷上川継の乱)を起こして 伊豆国に流されたのに連座し、不破内親王も淡路国へ流される。 延暦十四(795)年、淡路から和泉国に移されたのを最後に、史料上での消息が途切れる事から、不破内親王はこの頃に亡くなったもの と思われる。 大伴家持 天平勝宝七(755)年、防人閲兵のため難波に赴く。 天平勝宝九(757)年、兵部大輔に昇進。 天平宝字七(763)年、恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂 一人罪を問われ、大伴家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せら れる。 天平宝字八(764)年、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件 による左遷と思われる。 神護景雲四(770)年、正五位下に昇叙される。天平二十一年以来、 二十一年ぶりの叙位であった。以後は聖武朝以来の旧臣として重ん ぜられ、急速に昇進を重ねることになる。 天応二(782)年、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上 苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれ、陸奥の多賀城に赴任。 延暦二(783)年、陸奥駐在中、中納言に任じられる。 延暦三(784)年、持節征東将軍を兼ねる。 延暦四(785)年、死す。家持は単に歌人だけではなく、武人、そ れも高い位置にあった武人であった。そして家持は、万葉集編者の 一人であると言われる。 橘諸兄その後 天平十八(746)年、橘諸兄は大宰帥を兼ねた。大宰帥は大宰府の 長官で、九州における外交・防衛の責任者である。西海道の九国二 島を管轄した。 天平感宝元(749)年、正一位に陞階した。生前に正一位に叙され た人物は日本史上でも六人と数が少ない。 天平勝宝元(749)年、孝謙天皇・聖武太上天皇らが東大寺に行幸 した際、詔を左大臣橘諸兄に読み上げさせた(「続日本紀」記載)。 正一位を賜る。 天平勝宝二(750)年、朝臣の姓を賜り、橘朝臣諸兄となった。 天平勝宝七(755)年、飲酒の席での聖武太上天皇誹謗の言辞を密 告され、翌年二月、この責を負って官界を引退した。 天平宝字元(757)年死去。七十三歳と推測される。 参 考 文 献(安積親王と葛城王) 貞享4年 奈良曝 洛南書坊西村嘯月堂(春日大社・松村氏より提供) 明治44年以降か 郷土史第二編(郡山市誌第二編) 和紙にペン書きのもの 1928 万葉集新考 井上通泰 国民図書 1958 国語と国文学 10月号 橘為仲とその集・古代末期の歌 人像 犬飼廉 東京大学国語国文学会編 〃 新校万葉集 沢潟久孝 佐伯梅友 創元社 1963 今昔物語集 山田高雄 山田忠雄 山田英男 山田俊雄 岩波書店 1968 万葉秀歌 斎藤茂吉 岩波書店 〃 新釈古今和歌集上巻 松田武夫 風間書房 1971 国語と国文学 4月号 「橘為仲集」考 久保木哲夫 東京大学国語国文学会編 1975 私家集大成 中 和歌史研究会 明治書院 〃 万葉集発掘 原田大六 朝日新聞社 1976 作者類別年代順万葉集 沢潟久孝 森本治吉 芸林舎 〃 万葉集注釈巻第十六 沢潟久孝 中央公論 1977 古今集総索引 西下経一 滝沢貞夫 明治書院 1984 郡山の歴史 不二印刷 1985 都路村史 都路村 1987 大系・日本の歴史 佐原眞 小学館 1988 古今和歌集 小町谷照彦訳注 旺文社 1989 和歌文学研究 11月号 「橘為仲朝臣集」における問題 〜編年性をめぐって 高重久美 和歌文学会編 1993 歴史読本「古史古伝」論争 新人物往来社 1995 逆説の日本史 井沢元彦 小学館 1998 万葉集・本文篇 佐竹昭宏 木下直俊 小島憲之 塙書房 2000 万葉集・訳文編 佐竹昭宏 木下直俊 小島憲之 塙書房 2001 あさか乃神社史 あさか乃神社史編集委員会 2003 福大史学 74・75合併号 安積采女と多賀城創建 鈴木啓 福島大学史学会 2004 郡山の歴史 ル・プロジュ 2006 日本古代史年表 前田求恭 吉川弘文館 2006 大和物語(下) 雨海博洋・岡山美樹 講談社 2008 郡山市遺跡ガイドブック〜清水台と古代郡山 郡山市教育委員会 〃 みちのく ふくしま歴史文学紀行 永塚功 歴史春秋出版 2009 歴史読本・古代史を書き換える21の新・論点 新人物往来社 2010 郡山地方史研究 第40集 郡山地方史研究会 H P 万葉秀歌・斎藤茂吉 http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/5082_32224.html H P デンマンの書きたい放題・日本史 http://denman705.exblog.jp/i5 お世話になった方々 (五十音順・敬称略) 荒井政男 尾形徳之 笹森伸児 白戸明 鈴木俊哉 高館作夫 西山忠則 野沢謙治 氷室利彦 星美智子 松村和歌子 宮沢淑子 柳沼賢治 吉川貞司
最終更新日
2012.11.22 16:22:34
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2012.11.11
カテゴリ:安積親王と葛城王
橘 為 仲
この安積親王や橘諸兄の時代から約300年後、橘諸兄の十一代の裔である橘為仲(長和三・1014年頃〜応徳二・1085年)が郡山の伝説となって再登場する。1984年、『郡山の歴史(郡山市 不二印刷)』が出版されているが、その30頁に次の記述がある。 かつて、郡山の地名は、橘為仲のよんだという『陸奥の芳賀 の芝原春くれば吹く風いとどかほる山里』の歌の『かおる山』 から 出たと言われ、芳山の字を当てていた。しかし現存する『橘 為仲朝臣集』の歌のなかには、この歌はない。仮に『橘為仲朝臣 集』にその歌があったにしても、『かおる山』が訛ってから郡山に なったというのは当たらない。郡山の名は郡衙の所在地というと ころから出たと考えるべきであろう。 しかし2004年に発行された『郡山の歴史(ル・プロジェ)』の『「郡山」の地名のおこり』には、古代の郡衙のあったところには、『こおりやま』という地名が多いという説明のみで、橘為仲の歌についての記述が除かれている。その理由の記述はないが、恐らくこの歌が『橘為仲朝臣集』などにないことによるものであろう。私も『橘為仲朝臣集』をはじめ関連する文献に当たってみたが、見つけることができなかった。それにしても、1984年発行の本にあの橘為仲の歌を載せたということは、どこかにあったからではなかったのかと思った。この歌はどう考えても、現代人が作ったものとは思えなかったからである。 そこで私も、郡山図書館や奥羽大学図書館で『橘為仲朝臣集』など関連文書を調べてみたが、やはりそこにその歌はなかった。次いで私は郡山歴史資料館に足を運んでみた。そして見つけたのは、明治四十四(1911)年ころに和紙にペン書きされた『郷土史第二編 第十六章口碑伝説』であった。そこには次のように記されていた。 阿加岐山及郡山ノ起原 比止祢命方八丁ニ社稷ノ神ヲ祀ルベキ地ヲ求メ阿岐に加ヲ 加ヘテ阿加岐山ト称シ國神人祖霊ヲ鎮祭シ山河ヲ望●シテ國 界ヲ定メ荒壌ヲ墾キ田圃ヲ作リ人民ヲ撫育シ始メ芳賀ノ里ト 号シ日中古訛リテ加保里ト云フ阿加岐山ノ山ヲ取リ加保里山 ト云フ後世改メテ郡山と号セシトゾ。又昔橘為仲陸奥ニ下リタル 時此地ニ至リタルニ山桜盛リニシテ花ノ香旅ノ衣ヲ打ツ其時 ニ為仲歌ヘツラク 陸奥の芳賀のしの原春くればふく風いと丶かほる山里 コノ歌ノかほる山里ヲ転ジテ里トナシかほり山ト号シ後ニ 郡山ノ文字ヲ用ヘシゾ 注 ●は判読不明 しかし残念ながら、ここにはこの歌の原典についての記述はなかった。ただ承平五(935)年頃に成立したとされる『和名類聚抄』によれば安積郡には、入野・佐戸・芳賀・小野・丸子・小川・葦屋・安積の八郷があったことが分かる。すると『陸奥』の『芳賀』という固有名詞は郡山に他ならないことになるが、この歌の存在が確認されない以上、それとて推測となる。それでもこれで、明治四十四年まではさかのぼることができたが、こう記述されている以上、これを書いた人は当然ながらこの歌の原本を知っているはずである。しかしながら、今の時点で見つけることができなかった。 橘為仲は、長和三(1014)年ころ生まれたと推定され、二十歳になった長元八(1035)年『賀陽院水閣歌合』にて方人(かたひと・歌合わせなどで二組に分けられた一方の人)を勤めた。長久二(1041)年、『源大納言師房家歌合』が編纂されているが、ここに和歌六人党の顔ぶれが出ている。メンバーについては流動的であるが、為仲はいわゆる「追加メンバー」的な存在であったようである。のちに為仲は、家集『為仲朝臣集』や日記『橘為仲記』(散逸)を残すことになる。 永承二(1047)年十二月一日、橘為仲は六位蔵人・式部少丞となった。蔵人とは令外官の一つで天皇の秘書的役割、また式部少丞とは、大学寮 ・散位寮 の二寮を管掌していた役職である。その後も橘為仲は順調に昇進、駿河権守、淡路守、皇后宮大進、五位蔵人・左衛門権佐、従四位下、越後守を歴任し、承保二(1075)年秋、陸奥守として陸奥に赴任したが、六十歳位での赴任は相当の衝撃を与えたようである。この年の十一月七日、橘為仲は白河関を越え、その後竹駒神社の北にある武隈の松(宮城県岩沼市)で歌を詠んでいる。 たけくまのあとを尋ねて引うふる松や千とせの初めなるらむ すると『陸奥の芳賀の・・』の歌は春を詠んだものであるから、往路に詠んだものとは思えない。そしてその年末には多賀城に着いたものと思われる。六年後の永保元(1081)年秋、橘為仲は帰京しているが、その間に詠んだと思われる次の三首が、『橘為仲朝臣集』に残されている。 はなかつみ かつみしたにもあるものを あさかのぬまの あさきしのよや(46) 山の井の そこに心はあるものを あさかのぬまに かけやみゆらん(60) おもひくる かけしうつらは山の井の水はむつはし にこりもそする(61) これらの初めの二つの歌には『あさかのぬま』が、後ろの二歌には『山の井』が詠われている。これらの歌が実際に郡山を訪れて詠んだものか単に想像によるものかは不明であるが、『陸奥の芳賀の・・』という歌の実在を想像させられるものがある。そう考えてくると『陸奥の芳賀の・・』という歌がもし橘為仲の歌ではないとしても、少なくとも為仲は、安積について歌っていたことは確認できる。そうすると、『陸奥の芳賀の・・』の歌は、誰かが明治四十四年の文書から見つけ出して『郡山の歴史(不二印刷)』に載せたものなのであろうか。では明治四十四年の文書の歌の出典は何であったのか。どうしても疑問が残る。 橘為仲は、応徳二(1085)年十月二十一日に没した。 ところで月刊誌『国語と国文学』や『和歌文学研究』に記載されている『橘為仲集考』、『橘為仲とその集』、『「橘為仲朝臣集」における問題』に、これにつながると思われる記述がある。『陸奥の芳賀の・・』の歌の再発見の可能性があると思える記述を『 』で箇条書きにし、抽出してみた。 『もともと為仲集というのは、一首の歌を共用する全く異 なった二つの歌集があって、現在一般に流布している群書類 従本系では、その二つの為仲集が合体した形をとっている』 『要するに為仲集には、西行筆の本文と定家筆の外題をもっ たもの(甲本)があったこと、それはすでに三、四枚の落丁 を持っていたらしいこと、もう一つ全く別な為仲集があって、 それを合体した』 『伝本は宮内庁書陵部に甲乙二本が現存。 甲本(501・3 05) 188首 乙本(501・185) 56首 巻頭 より28首はほぼ一致するが、それ以降は乙本で大部分が欠 落』 『伝西行筆で佚名家集切とか未詳家集切、あるいはただ単に 歌集切と呼ばれている古筆断簡がある』 『佚名家集切は、実は為仲集切であった』 『各断簡はばらばらで少しもつながりがない』 『しかも実際にはまだほかにも落丁の部分がある』 『落着き場所不明の佚名家集切二葉(中略)から考えて、あ る部分では相当量の落丁 も考えられよう。伝西行筆本その ものの出現もさることながら、同種の断簡の発見が望まれる わけである』 『まだまだ発見が期待できるものとして、ここにその点を報 告しておく』 これらの古筆断簡などを念頭に置きながらも、散逸したという日記、『橘為仲記』も気になる。つまり『陸奥の芳賀の・・』の歌を現在見つけることが出来ないとは言っても、佚名家集切や断簡の中に含まれているのではないかと思えるからである。学者による今後の発見に、大きく期待したい。 ただ私がこの歌にここまで執着するのは、この歌が郡山市内の小学校の校名になったとも言われていることにある。曰く、芳賀小学校、薫小学校、芳山小学校、橘小学校などである。 安積親王と橘諸兄そして橘為仲の存在は、どこかで古代の安積や現代の郡山と密接につながっているように感じられてならない。 (終)
2012.10.21
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 山 の 歌 4
最終更新日
2012.10.21 10:03:53
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2012.10.11
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 山 の 歌 3
では何故このように異質と思われるような『あさか山の言葉』が『歌の父母』の二とされたのであろうか。考えられるのは、海と山を比較してみた場合、安積親王はやはり山と比喩した方が雰囲気としては合うのではあるまいかということである。また現実に安積が海に面していない以上、その公算は大と思われる。例えば、山を御神体とする神社は少なくない。そう考えてくると、仮名序で歌の父母としたのは、単に安積山の歌の出来映えがよかったから(一文字余りではあるが)ということだけではなく、それ以上のもの、つまり『安積山』が『安積親王』を象徴的に表していたからではないかと考えられる。そうすれば、『安積山の歌』が『歌の父母』として推奨された二つの歌のなかの一つであることの意味が分かるような気がする。 その上で、もう一つの疑問に『安積香山』がある。一文字一音という原則があったにせよ、なぜ『安積』に『香』という文字を重ねたのであろうか? 奈良県橿原市には天の香具山、畝傍山、耳成山の大和三山があり、持統天皇の御製の歌に『天の香具山』が出てくる。 春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣ほしたり 天の香具山 (万葉集 01/0028) この大和三山で『天の』の付くのは香具山のみである。この山は天皇が国見をする山であったことから、天から降ってきた『聖なる山』と考えられていたようである。とすればくどいようだが、『安積香山』は安積の『聖なる山』、つまり安積親王を表現しようとしたのではあるまいか。なおこの『安積山』が枕詞とされる例が多いが、原田大六氏の『万葉集発掘』には次のように記載されている。 『万葉集』では、枕詞と序詞というものは一切なく、歌の背 景は古神道であった。平安朝における和歌では枕詞と序詞が 存在し、歌そのものは仏教的思想に支配されていた、 古神道ということになると、やはり安積山イコール安積親王説を補強することになると思われる。その関係もあってか、万葉集約4,500首の歌のうちに『安達太良山』が三首もあるのに、この歌以外、『安積山』、もしくは『安積』のつく歌を見つけ出すことはできなかった。しかも安積山の歌を含めたすべての歌(四首)の作者が、そろって不詳とされているのである。 安達太良の 嶺(ね)に伏す鹿猪(しし)の ありつつも 我(あ)れは至らむ 寝処(ねど)な去りそね (安達太良山の鹿や猪はいつも決まった寝床に帰って休むと言います。私もお前のところへ通い続けるから、いつでも共寝できるように待っていてね)。 (作者不詳 万葉集 14/3428) 陸奥(みちのく)の 安達太良真弓 弦(つら)着(は)けて 引かばか人の我を言(こと)なさむ (檀(まゆみ)で作った弓に弦をつけて引っ張るように、あの女の気を引いたら 世間の人はあれこれと噂を立てるだろうなぁ) (作者不詳 万葉集 07/1329) 陸奥の 安達太良真弓 はじき置きて 反(せ)らしめきなば 弦はかめかも (陸奥の安達太良山でできる弓のつるを外しておいて、反らせておいたならば、もう一度つるをはめようとしてもはめられようか。それと同じで、逢わないでいてよりを戻そうとしてもだめでしょう) (作者不詳 万葉集 14/3437) それにしても安積山を詠った歌は一首しかないことから、安積山という山が普遍的に知られていての歌であったとは考えにくい。これに対し、安達太良山の歌が三首もあるということは、実在の山と架空の山との差であったのではなかろうか。安積山が架空の山であったということは、前述したように安積山が安積親王であったという仮定に基づく。そのことはまた、安積山という名の山が実在しない以上、『浅香山』が正しくないとも言い切れないのではあるまいか。大和物語に出てくる、『安積郡の安積山』という固有名詞が「あさかやま」を安積山に固定していった理由の一つと考えられる。 ところで最近、知人からの又聞きとして、次のようなことを聞いた。 「奈良・春日大社の建つ丘の名が『安積山』だということを、春日大社の宮司に聞いた」というのである。しかしすでに鬼籍に入られているその方の著書を図書館で漁ってみたが、見つけることができなかった。やむを得ず春日大社に、事実かどうかを問い合わせてみた。ほどなく春日大社宝物殿学芸員の松村和歌子さんより『奈良曝(丁卯暦孟夏吉日、洛南書坊西村嘯月堂)』のカラーコピーに添えて次の説明が寄せられてきた。なお奈良曝の序には、『古き京の残れる跡春日・興福・東大或ハ栄行今の寺社・名師・名匠・諸職・商店・町々の竪横を書あつめしより奈良曝としかいふ』とある。 お尋ねの安積山(浅香山)は、「奈良曝」貞享四(1687) 年刊行、(全5巻)の第三巻に記載があり、荒池畔の奈良ホテ ル(奈良市高畑町)がある小高い丘が浅香山と呼ばれ、近く に山の井があったことが分かります。 采女神社のある猿沢池から言えば、南東方向になります。 奈良曝の浅香山の項には、お手紙にあった万葉集の安積山の 歌をあげたあとに、「ぼだい谷成身院のうしろなる山をいへ り・・・」とあります。 山の井については、「水上が春日大社の建つ御蓋山(みかさ やま)で、その清流にある水谷川から流れてくるとあります。 近世の地誌ですので、これが、万葉集の安積山という確証は ありませんが、近世にはそう信じられていたようです。
最終更新日
2012.10.11 07:41:06
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2012.09.21
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 山 の 歌 2
前にも述べたが、葛城王の安積来訪については、神亀元(724)年、多賀城創建に際してその祝賀行事に出席、途中に寄ったとする説がある。しかし私はこの説を採りたくない。理由として、多賀城創建の祝賀行事に出席したとすれば天皇の名代であったと考えられること、そのため多くの付き人を引き連れていたであろうこと、さらに往路にしろ復路にしろ郡山に立ち寄ったとすれば、歴史上何らかの記述が残されているはず、と思えるからである。多賀城までの長い道中で、他の土地に寄ったという記録が一切なく、郡山だけなのである。この説は何とも不自然と思える。 このようなことがあったにしても、安積山の歌自体は、長い時間をかけて、専門家によって解釈されている。しかしそれに敬意を表しながらも、あえて私見を述べてみたい。ポイントは『安積山』と『山ノ井』である。 まず安積山であるが、『安積山は、安積親王を比喩的に表現したものではあるまいか』ということである。万葉集の編者であった葛城王か大伴家持が、安積親王を藤原氏からの目からそらすために、山という暗号を使って『安積山の歌』を詠み、作者を『陸奥国前采女某』、つまり実質的『詠み人知らず』として載せたとも考えられる。それでも万葉集に載せる時点で安積香山にしたのは、安積香山が安積親王ではないという言い逃れの余地を残そうとしたのではあるまいか 。 それでは『山ノ井』とは何を表したものであろうか。大辞林によると、『井は井戸、掘井戸。泉の地下水をためた水汲み場』とあり、井戸は、『地面を深く掘り、あるいは管を地中に打ち込んで地下水を地上に汲みあげるようにしたもの(三省堂・大辞林)』とある。また郡山の葛城王伝説では『清水』、奈良新発見伝では『井戸』となっている。するとこの井戸、また場合によっては『水汲み場』のような小さな池、しかも山にある。それに『安積山』という大きな山容が写るものであろうかという疑問になる。つまり覗き込めば顔くらいの大きさなら写るであろうが、山まで写し出すのには小さすぎるし、水位も低いのではないかということである。大和物語では、娘が『山ノ井』に自分の顔を写している。そのことから、『山ノ井』とは歌の内容から言って、文字通り『山にある井戸』という一般名詞であると思いたい。もしこれらの推測を許して頂けるなら、この歌の意は次のようになると思われる。 『安積親王のお顔を写す山ノ井戸は、あまり深くはありません。しかし私(安積派・たとえば葛城王)の(安積)親王への思いはとても深いのです』 こう考えられるもう一つの理由は、前にも述べたように日和田町の安積山は丘程度のものであったことと山ノ井の前に掲載した写真のように小さなものであったこと、そして片平町の安積山は額取山と比定されているがここの山ノ井は丘に囲まれていて直接額取山を目視できない位置にあること、にある。 ところでこの『安積山』の歌は、『難波津』の歌とともに『古今和歌集』の『仮名序(かなじょ)』の中で『歌の父母』とされている。ところが安積山の歌が万葉集に載っているにもかかわらず、難波津の歌は、古事記、日本書紀、万葉集のいずれにもなく、文献上は平仮名で記された古今和歌集の前書きである仮名序にしか載っていないという。『古今和歌集仮名序』は、『古今和歌集』の序文で、仮名で書かれていることから『仮名序』と呼ばれている。執筆者は紀貫之である。しかし平安時代になると、難波津の歌『難波津に 咲くや この花 冬ごもり 今は 春べと 咲くや この花』と言えば『誰でも知っている歌』の代名詞とされ、それだけによく知られた歌であったという。その仮名序は次の通りである。 なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり あさか山のことばは うねめのたはぶれよりよみて このふたうたは、 うたのちちははのやうにてぞ 手ならふ人の はじめにもしける (難波津の歌は 帝(第十六代・仁徳天皇)の御初(おほむはじ)めなり 安積山の言葉は 采女の戯(たはぶ)れより詠みて この二歌(ふたうた)は 歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ 手習(てなら)ふ人の初めにもしける) 仮名序のこの部分は、あえて説明を加えなくとも、その意味が理解できると思われるが、ここに二点、不思議なことが書いてあるように思える。第一点は『なにはづのうたは みかどのおほむはじめなり』であり、第二点は『あさか山のことばは うねめのたはぶれよりよみて』である。 第一点の難波津は『歌』と書かれ天皇を称(たた)えているのに対して、第二点のあさか山は『言葉』と書かれていて『歌』ではない。しかも紫香楽宮跡で出土した木簡の後半が『安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓』(あさき心を・七文字、わがおもはなくに・八文字)つまり三十二文字の一文字余りで歌の原則に合っていない。通常、『わが思(も)はなくに』とされているが、木簡から考えられるのは『わが思(おも)はなくに』と読むのが正しいのではないかということである。さらに詠み人は陸奥国前采女某、つまり作者を特定できない人の『戯れ歌』とされていることである。確かに『難波津の歌』は天皇の弥栄を祈るという内容から言っても、『歌の父母』の一つとされたのは理解できる。
最終更新日
2012.09.21 06:22:14
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2012.09.11
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 山 の 歌 1
2008年5月23日(金)の読売新聞の一面トップで、『木簡に万葉歌』『滋賀・紫香楽宮跡で発見』と報道された。 第四十五代・聖武天皇が造営した紫香楽宮(742~745 年、滋賀県甲賀市)跡で出土した木簡で、甲賀市教委が五月 二十二日に発表したもの、今をさかのぼること千二百六十三 年前のことである。この『安積山の歌』は、平安時代に紀貫 之が、古今和歌集の仮名序(905年頃に成立したとされる) で和歌を習得する際に必ず学ぶものとして『歌の父母』と記 していた。万葉集は、七世紀後半から八世紀後半ころにかけ て編纂された最古の歌集である。天皇、貴族から下級官人、 防人など様々な身分の人間が詠んだ歌を四五〇〇首以上も集 めたもので、成立は天平宝字三(759)年以後と見られる。 木簡の埋まった年代は万葉集編纂以前に記された木簡とみら れる。 阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎 和可於母波奈久尓 あさかやまかげさへみゆるやまのゐのあさきこころを わがおもはなくに 万葉集の原文はすべて漢字の一字表記である。中国大陸および朝鮮半島から輸入した漢字を日本語の音にあてて用いていたものであって、まだ「ひらがな」はなかった。それであるから万葉集に載せる以前と考えられるこの『阿佐可夜麻』の文字列から、『浅香山』か『安積山』かの確認はできない。なおこの木簡の斜文字は確認された文字で、栄原永遠男・大阪市立大大学院教授によると、天平十六(744)年末から翌年の初めに書かれたものとされる。これは安積親王薨去の年(天平十六年)に近いが、単に偶然の一致なのであろうか。 ともあれこのニュースは、葛城王伝説を持ち、采女まつりを催す郡山で大きな反響を呼ぶことになった。しかしここに出てくる木簡の文字は、現在では使われていない形式のものである。そして万葉集には『安積山』ではなく『安積香山』と記載されている。『阿佐可夜麻』が『安積香山』になり、いつの時代から『安積山』になったのかは不明であるが、ただこの『阿佐可』に似た『阿佐鹿』の文字が、三重県津市に伝わっている。 日本武尊の伯母で、後に日本武尊に草薙の剣を与えたとされる倭姫命が、藤方片樋宮(三重県津市にある加良比乃神社とされる)に着くと、そこには阿佐鹿の悪神が阿佐加の嶺に坐していたというのである。ではこの阿佐鹿の悪神とは誰なのであろうか。成務天皇の時代に熊襲退治や日本武尊の八握脛(やつかはぎ)という悪者退治の話が出てくるが、『大和にまつろわぬ民』として熊襲や蝦夷が出てくるから、阿佐鹿の悪神とは熊襲か蝦夷を意味していたのかも知れない。 確かに三重県は福島県より都に近いから、ここの阿佐鹿つまりアサカが使われたのではないかということは、イメージとしては理解できる。しかしはたして、父である聖武天皇は『阿佐鹿の悪神』の『阿佐鹿』をわが子の名にするであろうか。その理由からも『阿佐鹿親王』ではなく、『安積親王』にした気配が濃厚になってくる。 それでも当時都から見て辺境の地と思われていたはずの安積という地名を、何故わが子につけたのかという疑問が残る。ただし日本書紀が編纂される七年前の和銅六(713)年、元明天皇が各国の国司に命じてこれの資料とした一つの『播磨国風土記』に、安積山製鉄遺跡(兵庫県宍栗市一宮町安積字丸山)があるが、これは『あづみやま』と呼ばれている。ここから考えられるのは、もともと『あづみしんのう』と呼ばれていたものが、『あさかしんのう』となったのではあるまいかという憶測である。 しかし養老四(720)年、北奥に蝦夷の大乱があった。それに対抗するために神亀元(724)年、陸奥国府が郡山(いまの仙台市太白区郡山)からさらに北方の多賀城に移され、安積は多賀城への兵站基地となった形跡がある。つまり都から見て、安積は蝦夷経営のための重要な地域であったことになる。すると蝦夷との境という重要な地域といった意味で、為政者の間では安積の名が知られていたと考えられる。 しかも安積親王はこの大乱から八年後、前述した『播磨国風土記』編纂からは十五年後に生まれているのである。その蝦夷との境界、つまり軍事的に最重要な地域から、安積という名には猛き者、強い者という情念を感じて親王の名としたのかも知れない。『あづみ』を『あさか』と変えた理由が、ここにもあるのではあるまいか。 安積香山の歌の収められている万葉集の巻十六までは、天平十七(745)年以前の作品とされている。安積親王が亡くなったのが天平十六(744)年であるから、親王生前の作品ということになる。このこと自体が、安積香山が安積親王であったことを示唆してはいないだろうか。 さて『陸奥国前采女某』によるとされるこの歌の原文は、『安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國(校本万葉集)』である。しかし郡山には安積香山、もしくは安積山という山は実在しない。つまり誰も見たことも、聞いたこともない山が題材とされたということはどういうことなのであろうか。この安積山の歌について、斎藤茂吉氏がその著、『万葉秀歌』で次のように述べている。 葛城王が陸奥国(みちのくのくに)に派遣せられたとき、 国司の王を接待する方法がひどく不備だったので、王が怒っ て折角(せっかく)の御馳走にも手をつけない。その時、嘗 (かつ)て采女(うねめ)をつとめたことのある女が侍して いて、左手に杯(さかずき)を捧げ右手に水を盛った瓶子 (へいし)を持ち、王の膝(ひざ)をたたいて此歌を吟誦し たので、王の怒が解けて、楽飲すること終日であった、とい う伝説ある歌である。 葛城王は、天武天皇の御代に一人居るし、また橘諸兄(たちば なのもろえ)が皇族であった時の御名は葛城王であったから、そ のいずれとも不明であるが、時代からいえば(第四十代)天武天 皇の御代の方に傾くだろう。併し伝説であるから実は誰であって もかまわぬのである。また、「前(さき)の采女」という女も、嘗 (かつ)て采女として仕えたという女で、必ずしも陸奥出身の女 とする必要もないわけである。 「安積 (あさか)山」は陸奥国安積郡、今の福島県安積郡 日和田町の東方に安積山という小山がある。其処だろうと云 われている。 木立などが美しく写っている広く浅い山の泉の趣で、上の 句は序詞である。そして「山の井の」から「浅き心」に連接 せしめている。「浅き心を吾が思はなくに」が一首の眼目で、 あなたをば深く思いつめて居ります、という恋愛歌である。 そこで葛城王の場合には、あなたを粗略にはおもいませぬ というに帰着するが、此歌はその女の即吟か、或は民謡とし て伝わっているのを吟誦したものか、いずれとも受取れるが、 遊行女婦(うかれめ)は作歌することが一つの歓待方法であ ったのだから、このくらいのものは作り得たと解釈していい だろうか。この一首の言伝(いいつた)えが面白いので選ん で置いたが、地方に出張する中央官人と、地方官と、遊行女 婦とを配した短篇のような趣があって面白い歌である。 伝説の文の、「右手持レ水、撃二之王膝一」につき、種々の疑問 を起しているが、二つの間に休止があるので、水を持った右手で 王の膝をたたくのではなかろう。「之」は助詞である。
最終更新日
2012.10.27 09:40:39
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2012.08.21
カテゴリ:安積親王と葛城王
挽 歌
安積派の人びとが、「しまった」と思ったのは間違いのないことであろう。安積親王の薨去は、依るべき柱を失った安積派の壊滅と藤原氏の隆盛を意味したからである。 天平勝宝元(749)年、父・聖武天皇の譲位により、長女の阿倍内親王が第四十六代・孝謙天皇として即位した。阿倍内親王は基王の実姉であり、安積親王の義姉であった。皇室は、その後も懊悩を繰り返していた。この安積親王の突然の薨去に際して、二十七歳であった家持が、安積親王への挽歌を詠っている。 かけまくも あやにかしこし 言はまくも ゆゆしきかも 我が大君 皇子(みこ)のみこと(命) よろづよ(万代)に 見したまはまし おほやまと(大日本) 久邇の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きをゐり 川瀬には 鮎子さ走り いや日けに 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人よそひて 『和束山』(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ こいまろび ひづち泣けども せむすべもなし 注 『和束山』の『』は筆者による。 (心にかけて思うのも 畏れおおく 言葉にだすのも 憚りおおいことながら オオキミが 万代までも 安積親王が これを継いで万代までも 治めたまうおほやまと(大日本)の 大和の 久邇の都は 春になれば 山辺に花咲き 川瀬には 若鮎がついついと泳ぎ 日に日に 栄えてゆく時に 和束山に 安積皇子は 御輿を停めて 天上を治めに 昇ってしまわれた 人を惑わす 空言ではなかろうか 事もあろうに 舎人達は白栲の喪服を着て 伏し悶え 涙にまみれて泣くのだが いまは どうするすべもない 嗚呼) (万葉集 03/475) 反し歌 我が大君 天(あめ)知らさむと 思はねば おほにぞ見ける 和束杣山(わづかそまやま) (我らが大君である 安積皇子が ここ和束の杣山を 常宮(とこみや)になさろうとは 思いもかけなかったので いままで なおざりにみていたのだった この和束の杣山を) (万葉集 03/476) 反し歌 あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも 注 この花は桜であろうと言われている。 (山のくまぐままで 照り輝いて 咲き誇っていた 花が にわかに 散ってしまったような 我らが大君 徳高き 安積皇子よ) (万葉集 03/477) 次は安積皇子の薨去より七十一日目に、大伴家持が作った歌である。なお七十一日目は四十二日目の六七日(むなのか)の誤記との説もある。 かけまくも あやにかしこし 我が大君 皇子(みこ)のみこと(命)もののふの 八十伴(やそとも)の 男を 召し集へ あども(率)ひたまひ 朝狩に 鹿猪(しし)踏みおこし 夕狩に とり(鶉雉)踏み立て 大御馬(おほみま)の 口抑へとめ 御心を見し明らしめ 活道山(いくぢやま) 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり 世のなかは かくのみならし ますらをの 心振りおこし 剣大刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負いて あめつち(天地)と いや遠長に よろづよ(万代)に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の さばへ(五月蠅)なす 騒く舎人は 白栲(しろたへ)に 衣取り着て つねなりし ゑま(笑)ひ振舞ひ いや日異(ひけ)に 変らふ見れば 悲しきろかも (心にかけて思うのも 畏れおおく 言葉にだすのも 憚りおおいことながら 我れらが大君と たたえる皇子の命(みこと)であった 安積皇子は 数多くの臣下達を 呼び集め 引き連れられて 朝の狩には 鹿や猪を追い立て 夕べの狩りには 鶉や雉を飛び出させ 乗馬の手綱を引いて馬を止め あたりを眺めて 心を晴らされた 活道(いくぢ)の山 活道山の 木々は伸び放題に伸び 咲いていた花も 皇子とともに 散ってしまった 世のなかは こんなに儚いものであるらしい ますらおが 雄々しい心を振りおこし 剣大刀(つるぎだち)を 腰に佩き帯び あずさ弓を手に 矢入れの靫(うつぼ)を背負って 天地とともに ますます遠く久しく 万代(よろずよ)までも こうしてお仕えしたいと 頼みにしてきた その皇子の御門に かっては賑わしく お仕えしてきた舎人達は 今は 白栲の喪服を身にまとい いつもの立ち居振る舞いが 日々に失われていくのを 見ると 悲しくて やりきれない) (万葉集 03/478) 反し歌 はしきかも 皇子のみことの あり通い 見しし活道の道は 荒れにけり (嗚呼 いたましい 安積皇子が 愉しみ通われた 活道の道は 荒れは ててしまった 嗚呼 安積皇子よ) (万葉集 03/479) 反し歌 大伴の 名負ふ靫(ゆき)帯びて よろづよに 頼みし心 いづくか寄せむ (武門の大伴の名を 靫負う大伴の名を 帯して 万代までも お仕えしようと 頼りにしていた心を 安積皇子が 崩御された今はいったいどこに寄せたらいいのか) (万葉集 03/480) 家持は、このような長歌、反し歌をそれぞれ二首奉った。この後、家持は四月の頃まで平城京の自宅で喪に服していた形跡がある。 天平十八(746)年、大伴家持は越中守に遷任され、七月、越中へ向け旅立った。橘諸兄とはこの後も連絡をとりあっている。 いにしへに 君が三代経て 仕へけり 我が大主は 七代申さね (過ぎし御世には 大君三代(文武・元明・元正)を通してお仕えしたと申しますが わが主君(橘諸兄)はどうか七代までもお仕え下さいますよう) (万葉集 19/4256) 万葉集の編者とも目される二人が、このような歌を万葉集に堂々と載せていることは、藤原氏に気兼ねなく、亡くなった安積親王を称えることができる状況に変わったということであろう。
最終更新日
2012.08.21 06:21:50
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2012.08.11
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 派 の 人 び と 3
【塩焼王】 祖父は天武天皇。父は天武天皇と五百重娘との長子・新田部親王であるが、祖母の五百重娘は藤原不比等の異母妹である。不破内親王の夫。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平五(733)年三月、親王の子に対する蔭位として、無位から従四位に叙せられた。天平十二(740)年一月には従四位上に昇叙。同年十月には聖武天皇の伊勢行幸に御前長官として供奉。同年十一月には 正四位下に昇叙。時期は不明であるが、この間に中務卿に任ぜられている。 天平十四(742)年十月、女嬬四人とともに投獄されて伊豆国に配流された。いわゆる塩焼王配流事件である。真相は不明であるが、聖武天皇の皇子でありながら立太子出来ないでいた義弟・安積親王に対する同情が発端となったらしい。 天平十六(744)年閏一月、安積親王がわずか十七歳にて薨去された。 天平十七(745)年、塩焼王は赦免されて帰京し、翌天平十八(746)年閏九月には本位(正四位下)に復している。復帰と同時に不破内親王は親王の名を削られた。 【藤原八束】 藤原房前(ふささき)の第三子。母は美努王の娘・牟漏女王(むろのおおきみ)(尊卑分脉)。橘諸兄の甥にあたる。若くして才を顕し、聖武天皇には特に目をかけられ、春宮大進として官途に就いた。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平十二(740)年、正六位上より従五位下、さらに従五位上に昇叙され、二十六歳の若さで大夫となる。 天平十五(743)年、安積親王を自邸に招いて宴を開いた。この宴には大伴家持も出席している。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平勝宝三(751)年十一月二十五日、橘諸兄宅の宴に聖武上皇・大伴家持らと臨席、歌を詠んだ。 島山に 照れる橘髻華(うず)に挿し 仕へまつるは卿大夫(まへつきみ)たち (庭園の山に輝く橘の実を髪飾りに挿してお仕えしているのは、大君の御前に伺候する官人たちである) (万葉集 19/4276) 髻華は髪飾り。橘は常世から持ち来たったとの伝承をもつ目出度い木の実。この場合、『橘諸兄を主導者として仰ごう』との政治的暗喩があるとされる。藤原八束は母が諸兄の妹だったこともあり、藤原氏でありながら親諸兄派(安積派)であった。万葉集には八首あり、安積親王、橘諸兄、大伴家持、山上憶良らとの親交が窺える。古く万葉の撰者にも擬せられている。 【僧・玄ボウ(日辺に方)】 養老元(717)年、遣唐使に学問僧として随行、入唐して智周に法相を学ぶ。在唐は十八年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗に才能を認められ、三品の位に準じて紫の袈裟の下賜を受けた。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平七(735)年、経論五千巻の一切経を携えて帰国した。 天平九(737)年、玄ボウは僧正に任じられて内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。 聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世したが、天平十二(740)年、藤原広嗣が玄ボウを排除しようと九州で兵を起こした(藤原広嗣の乱)。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平十七(746)年、藤原仲麻呂が勢力を持つようになると筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年任地で没したが暗殺されたとの説もある。 【下道真備 (後の吉備真備(きびのまきび))】 吉備真備は日本の歴史において菅原道真と並ぶ天才と称されているが、当時の中央政権内にあっては大した身分ではなく、真備の父親である下道圀勝氏は平城京に上京して警護兵を務めていた程度であった。しかし真備は若い頃より学問の才能をもち、十五歳の頃、当時の大学とよばれる中央の学校に入学、卒業する時には既に従八位下という官位を与えられ、また大学卒業後間もなく遣唐留学生に選ばれ阿倍仲麻呂、僧の玄ボウらとともに唐へ渡航した。 神亀五(728)年、安積親王誕生。 天平六(734)年、多くの典籍を携えて唐より帰国した。 天平九(737)年、橘諸兄が大納言となって政権を掌握。同時に帰国した僧玄ボウとともに重用され、 真備は右衛士督の役職を兼ねた。 天平十二(740)年、藤原広嗣、真備 と玄ボウの排除を主張して反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。 天平十六(744)年、安積親王薨去。 天平十八(746)年、真備、吉備朝臣真備の姓を賜るが、天平勝宝二(750)年、筑前守、次いで肥前守へ左遷され、第十次遣唐副使として唐へ渡航(第二次)する。二度までも命がけの入唐を命じられたついては、藤原仲麻呂の陰謀説がある。 天平勝宝五(753)年、鑑真を伴って帰国する。 天平宝字八(764)年、藤原仲麻呂が反乱をおこし、真備らによって鎮圧された。(藤原仲麻呂の乱、恵美押勝の乱ともいう)
最終更新日
2012.08.11 10:09:46
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2012.07.22
カテゴリ:安積親王と葛城王
安 積 派 の 人 び と 2
「やがては」、と安積親王に期待する気持ちが詠われている。宴は安積親王を慰める、または元気づけるためのものであったと思われるし、もしそうであるとすれば、記録にはないがこれ以前にも多くの宴が開かれたものと思われる。藤原氏は、四人兄弟の次の世代に移っていた。しかしすでに広嗣は九州で反乱を起こして故人となっていたし、仲麻呂は阿倍内親王に取り入ることを試み、八束は安積親王を囲むメンバーの一人として宴の場を持っていた。 聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、留守官の橘諸兄と内舎人の大伴家持は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮(京都府木津川市)に留まった。 天平十六(744)年正月、安積親王の邸があったとみられる『活道岡(いくじおか)』で家持や市原王(第三十八代・天智天皇の五世孫)らが集まって宴を開き。歌を詠んでいる。 一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 声の清きは 年深みかも (この一本松は、どれほど長い年月を経ているのか。吹き抜ける風の音がなんとも清らかなのは、幾多の年輪を重ねてきたからなのだろうか) (市原王 万葉集 06/1042) 皇統から疎外された市原王と、政権から疎外された名門の大豪族の末裔の貴公子大伴家持との、安積親王に対する夢多い祝福の歌であったのであろう。彼らにとっての最大の願望は安積親王の即位にあった。この歌は安積親王への正月の祝賀歌であると同時に、『一つ松』という言葉に安積親王の即位を待つ期待が、また『松』には安積親王の無事長命を合わせ込めたものであると言われている。 閏一月、聖武天皇は左大臣・橘諸兄に難波宮(大阪市中央区)を皇都とすると宣言させ、難波宮に行幸した。 この年、安積親王が薨去された。 天平十七(745)年、橘諸兄の遷都計画は失敗に帰し、以後、次第に実権を藤原仲麻呂に奪われることになる。 【大伴旅人と家持】 大伴旅人とその子・大伴家持は歌人として有名であるが、むしろ武人としての家系にあった。大伴氏は、天孫降臨のときに先導を行った天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、古代日本の有力氏の一つである。大伴氏は物部氏と共に軍事の管理を司っており、現在でいう皇宮警察や近衛兵のような役割をしていた。今も宮城の正門に、大伴門(朱雀門)の名を残している。そのような立場にもあって、旅人は長屋王派と言われ、その重鎮として活動していたようである。 養老四(720)年、旅人は山背摂官となり、その後征隼人持節大将軍として隼人の反乱を鎮圧、そして八月、不比等の死に際して勅命を受けて京に帰還した。これらの事情から反藤原の人たちは、旅人などを中心に結束を固めはじめた。しかし未だ、その核とするべき人物はいなかった。 そのような神亀五(728)年、安積親王が生まれた。大伴旅人六十二歳、その子・家持は九歳のときであった。 天平三(731)年、『安積派』の重鎮でもあった大伴旅人が亡くなった。十二~三歳になっていたその子・家持は、三歳となった安積親王に歌を贈ったとされている。しかしここでは、『安積親王』の名は使われていない。 見まつりて未だ時だに更 (かは) らねば年月の如思ほゆる君 (お逢い申し上げてまだ幾らも時は経っておりませんのに、もう長い年月を経たように懐かしく思われる君よ) (万葉集 04/0579) 足引の山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも (山に生えている菅の根が土にしっかりと絡みついているように、つくづくとお顔を拝見したい君であることよ) (万葉集 04/0580) 家持は亡父・旅人や葛城王とともに、安積親王の有力な支持者となっていた。家持が天平八(736)年以前に安積親王を詠んだとされる歌に、次のものがある。『安積親王』は八歳となっていた。 我が屋戸の一むら萩を思ふ子に見せず ほとほと散らしつるかも (我が家の庭に咲いた一群れの萩の花を、思いをかけている子に見せないまま、ほとんど散らしてしまいました) (万葉集 08/1565) 天平十五(743)年、聖武天皇は紫香楽宮(信楽宮・滋賀県甲賀市信楽町)に遷都し行幸に出発する。その際、内舎人の大伴家持と留守官の橘諸兄は、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁宮に留まった。このことから、家持は親王専属の内舎人になっていたかと推測される。 天平十六(744)年閏一月、安積親王が薨去された。 その後大伴氏は藤原氏の台頭によって衰退していくが、万葉集などでの文化的な面で活躍をみせる。
最終更新日
2012.07.22 09:03:05
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