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 めいてい君@ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Oct 4, 2017
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讀賣新聞 朝刊

時代の証言者 石 弘光

​​・・・​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​税制一路・・・​​

​​(その8/30) 赤字国債 大平蔵相の後悔





​★

 <補足資料:WIKIPEDIAなどから>



 オリンピック(1964年)景気

  開催前年度・・・が最高潮に盛り上がり、
  開催後・・・は不況の波がくる
 
  ・東海道新幹線
  ・首都高速道路
  ・国立競技場
  ・日本武道館など・・・建設需要
  ・観戦をTVで見ようとするTV需要
  ・外国人訪問客の増加を見込む

  

 証券不況=証券恐慌、昭和40年不況、構造不況
   (1964年後半~1965年)

   
   1964年にサンウェーブ、日本特殊鋼(現大同特殊鋼)および
   1965年に山陽特殊製鋼の倒産(負債総額)500億円の企業倒産があった。 
   政府は、同年5月に日銀から山一證券への無担保・無制限特別融資=日銀特融
   7月には戦後初の「赤字国債」発行を決めた。・・・田中角栄蔵相

   大蔵省は「証券業界再建策はヤマを越した」と強調し
   必死に、取り付け騒ぎの様な状態になった「山一」を守る姿勢が読み取れます。


 いざなぎ景気
   (1965.11~1970.7の57ヶ月)

   1967~1970年の製造業稼働率指数は120%を越え、
   1968年のGNPは西独を抜き世界2位となる。
   1970年に八幡製鐵、富士製鐵の合併で新日本製鐵(新日鐵)
    マイカーブーム、カラーTV、エアコンの3C(新三種の神器)
   国際収支は経常収支が大きな黒字となり、国際収支の天井が景気拡大の制約条件
   という観念から外れた。
   いざなぎ景気の後退は、賃金・物価の上昇加速を抑えるための金融引き締めと、
   設備循環に帰せられている。


 ニクソン・ショック​(ドル・ショック)

   1971.8.15に発表された、米ドル紙幣と金との兌換一時停止を宣言し、
   ブレトン・ウッズ体制の終結を告げた新しい経済政策。
   この兌換一時停止は諸外国にも事前に知らされておらず、突然の発表で極めて
   大きな驚きとともに、その後世界経済に大きな影響を与えた。
   政権発足時から景気対策で好ましい成果を出せず、不況でインフレでしかも
   高い失業率で、なおかつ貿易収支が赤字に転落する1971年7月頃には明らかに
   ニクソンの経済政策が失敗していると見なされていた。
   日本はこのアメリカの不況の影響をもろに受けていたのである。
  「ニクソン不況」とは、このショック以前のニクソン政権の経済政策の失敗が原因で
   起こったことであり、「ニクソンショック」とは、この国内の不況と国際経済での
   アメリカの役割を見直すカンフル剤として打ち出したもので、ショックが原因で
   不況になったわけではない。
   日本はすでにニクソンショックの1年前の1970年7月から景気後退期に入っており、
   ニクソンショックの頃はすでに不況であった。前年の大阪万国博の開幕で、
   それ以前の万博景気に沸いた反動が万国博覧会の開催中に現れてきていた。

   景気動向指数からいくと、東京五輪が開催された
   1964年10月から景気後退期に入り(証券不況)、
   1年後の1965年10月に底をついて上昇に入り、
   それらが1970年7月まで続き(いざなぎ景気)、
   1970年7月をピークに景気後退期に入り(ニクソン不況)、
   1971年12月を底に再び上昇に入って列島改造景気で、
   1973年11月の第一次オイルショックまで好景気になっている。
   57ヶ月続いた「いざなぎ景気」の後に「ニクソン不況」は17ヶ月続いた。



  ​列島改造景気​

    1971年から1973年頃にかけての好景気で、田中角栄首相の著書
   「列島改造論」により引き起こされ、 大規模な土地開発が行われた
    ことで発生。

   
   
​​​★

  ​​​石油危機

 
  <原油価格の長期推移1861~2007:WIKIPEDIA>
   名目価格=Nominal
   実質価格(2015 dollars:物価変動補正)



   /////////////////////////////////////////////////////////////////////
 ​  
<石炭・鉄鋼への傾斜生産
   →低価格の原油依存(1960年代~)
   →国際石油資本=メジャーの独占利益=オイルショック>
        
/////////////////////////////////////////////////////////////////////


​​​


1. ​第一次オイルショック​
 
  1973.10第4次中東戦争勃発。日本ではニクソン・ショックから立ち直りかけていた
  矢先の景気を原油価格上昇が直撃し、トイレットペーパー、洗剤の買い占め・便乗
  値上げでインフレが加速した。日銀がインフレ抑制のために公定歩合を引き上げた
  ために企業設備投資に抑制が掛かり、1974年の成長率は戦後初めてマイナスを記録
 (▲1.2%)した。

  

  ・ガソリンスタンドの休日営業中止
  ・マイカー自粛
  ・深夜TV放送中止
  ・エスカレーター運転中止 
  ・ネオンサイン午前零時消灯
  ・etc.

     ・トイレットペーパー・パニック→「便乗値上げで狂乱物価
  (小生は、ビニールなどの被覆電線なども不足したように感じた。)


  <イスラエル支援政策→親アラブ的中東政策への転換>
  <1974年>戦後初めてマイナス成長 ▲1.2%=高度経済成長の終焉
  <1975以降の国債大量発行の契機>
  


2. ​第二次オイルショック​

  1978年イラン革命でイランからの石油輸入が滞り、また、1978年末にOPECの
  値上げで原油価格は高騰(30ドル台)。
  前回オイルショックでの学習効果、省エネルギー政策、企業の合理化効果など
  で影響は少なく抑えることができ、イランの石油販売再開もあり危機は免れる。



​​​​​​★

 ​大平正芳(おおひら まさよし)​
 1910.3.12~1980.6.12
 大蔵省勤務、池田隼人側近、
 内閣官房長官、外務大臣、通商産業大臣、大蔵大臣を歴任、
 内閣総理大臣第68・69代
 香川県生まれ、東京商科大学(現一橋大学卒)
 クリスチャン、 贈大勲位菊花大綬章  
 ​内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想や総合安全保障構想
 などを提唱した。大蔵省の出身で、蔵相時代の赤字国債発行や財政再建への強い拘り
 があり、財政家としての側面は広く知られている。「棒樫財政論」や「安くつく政府」
 に代表される小さな政府志向であった。
​​​​ 大平自身は三木内閣の蔵相時代に赤字国債の大量発行に踏み切った責任を強く感じ、
「子孫に赤字国債のツケを回すようなことがあってはならない」との思いから、
 内閣総理大臣に就任した際に税制改革を断行しようと考え一般消費税導入を提唱した。
 しかし自由民主党内からの反発や野党・世論の反対を受け、また1979年衆院選での
 自由民主党大敗もあって挫折に追い込まれた



  ​日本の景気循環の「底~天井~底」​
  
   <「日本経済入門」の景気って何なの?​​​​
    www.nikkeibpm.co.jp/content/files/download/442/p2.pdf>

★​​​​​​​​​





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Last updated  Apr 29, 2020 04:37:23 PM
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