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これは、出典を忘れましたが、何年前かに本で読んだ言葉です。
わたしは、これを読んだ時、気持ちを聞こうとすると、言ってもしかたがない、と、その頃には、いっさい胸の内を話さなくなった息子のことを、不思議に思っていました。 感受性がたかくて、早くに気がつきすぎたんだな。私に聞く耳が育っていなかったから、気持ちを外に出せないで、溜め込んでいたんだな。溜め込みすぎて、かえって、手をつけるのが怖くなっていたんだな。 三ヶ月前に、やっと悩みの存在をほのめかして、「でもとても言えない。」と言っていた息子が、重い口をひらいて、やっと話し始めたことなので、これは、大切にしよう、と、思って聞いています。そうやって何日も聞いていて、鈍い私にもやっと見えてきたことは、学校を自分から離れて自由な時間を満喫している息子の姿などではなくて(これは、私がそう思っていたかっただけ。)おとうさんとの確執になけなしのエネルギーを吸い取られてニッチもサッチもいかなくなっている、今の息子の辛さでした。 これは、とても学校へ行くどころではなかった。わたしは、アフォでした。 つんだら、等身大の彼が、見えてきました。息子の目が見ている、おとうさんの姿が見えてきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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